文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 118 アメリカの巡回裁判所

もう随分昔のことですが、アメリカのどこかで、私は巡回裁判所の建物をみたことがあるのです。モンタナ州のミズーラという小さな町だったような気もするのですが、自信はありません。

 

若い弁護士がハンドルを握っていて、私は助手席に座っていた。アメリカの地方のことですから、広大な土地があって、建物がまばらに見える。そんな感じだったと思います。それでも、一応その町では目抜通りであろうと思われる道を走っていた時に、ある建物が目に止まったのです。石造りの、相当古そうな白っぽい建物でした。教会かなと思ったのですが、十字架もマリア様の像もない。その建物に気を引かれている私の様子を察したのでしょう。若い弁護士が言いました。

 

「あれは、巡回裁判所だよ」

 

その時に覚えた感動と、建物の残像は、未だに私の心に明確に残っています。こんな小さな町に、それでも裁判所があるんだ! 例えば、日本の小さな町にでも病院や小学校があったりする。それと同じように、アメリカの小さな町には、裁判所があるんです。それも、かなり昔から。そこに、私はアメリカの民主主義の原点を見たような気がして、感激していたのです。それだけ、アメリカという国は、人々が裁判を起こす権利というものを尊重している。そして、裁判という法律上の制度が、人々の紛争を解決する手段として、生きて機能している!

 

ちょっとご説明しますと、巡回裁判所には、裁判官や職員が常駐している訳ではないのです。例えば、毎週何曜日という具合に決まっていて、その日だけ裁判官や職員がやって来るのです。アメリカの広大な土地と、アメリカ人の知恵が産み出した、小さな裁判所のシステムなんですね。しかし、いかがでしょうか。日本だったら、大きな都市に裁判所を作って、裁判をやりたければそこまで来い、ということになっているのでは。そこが、アメリカは違うんです。はるばる裁判官が、やって来てくれるんです。こんな草の根レベルから、日本とアメリカとでは違っているんです。

 

アメリカの法律制度の特色のひとつに、強力な州法というものがある。例えば日本だったら、会社に関する法律は、全国共通の会社法というものがあって、裁判の手続だったら、民事訴訟法、刑事訴訟法というものがあって、これらも全国共通です。一方、アメリカではこれらの法律は、全て州法に決まっている。50以上の州があって、それぞれの州が独自の法律を定めているんです。民法のような法律も、州によって異なる。日本の法律というのは、原則的には文書に記載されています。これを制定法と言います。そして、法律の微妙な解釈については、判例に従うことになる。他方、アメリカでは、原則として、まず判例がある。そして、過去の判例が、その後の事件を判断する時に、拘束力を持つんです。この規範を判例法とか、コモンローなどと呼びます。そして、その判例の蓄積というのは、州によって異なる訳です。このように、アメリカでは州ごとに法律の体系が異なりますので、その結果、弁護士の資格も州によって異なります。例えば、ニューヨーク州で弁護士の資格を取ったからと言って、テキサス州の法廷に立つことはできない。アメリカというのは、正に「合衆国」なんです。

 

最近、トランプ大統領が環境問題に関するパリ条約からの離脱を決断しましたが、いくつかの州で反対する動きが出ている。州法が強いので、こういうことが起こるんです。

 

アメリカの訴訟制度の特徴には、「陪審制」ということもあります。最近は、日本でも重大な刑事事件についてのみ、裁判員制度というのが適用されていますね。そのベースとなったのが、アメリカの陪審制です。アメリカでも裁判官が判決を下すという方法もあり、州によっては、裁判の当事者がどちらかの制度を選択できます。しかし、私の印象としては、アメリカ人というのは、陪審制が好きなようです。アメリカでは、民事事件でもこの陪審制が適用されます。例えば、製造物責任に関する裁判がある。すると、アメリカの一般の国民が陪審員となって、侃々諤々論議をするんですね。この件では、製造物に欠陥があったのかとか、被害者がかわいそうではないかとか、論議をする。するとそこから、色んなロジックが生まれてきて、それが判例法を形成していくんです。製造物責任に関する裁判であれば、「欠陥とは何か」ということが問題になります。例えば、飛行機に乗ったらそれが墜落してしまった。しかし、飛行機というのは、一定の確率で墜落するものだから、その都度、賠償責任を課していては、飛行機会社が倒産してしまう。こういうケースは「危険の引き受け」という概念で処理できないだろうか。例えば、ナイフで指に怪我をしてしまった。しかし、ナイフが危険なものであるということは、一目瞭然だ。こういうケースは、「明白な危険」という概念を作ってはどうか。こういうロジックが次々に生まれるんです。すると、学者や弁護士も論議に参戦してくる。元来、どんな製造物にもリスクはつきものだ。例えば、医薬品であれば、その副作用というリスクがある。他方、医薬品には病気や怪我を直すという便益もある。従って、その双方を比較して、リスクが便益を上回った場合、その製造物には欠陥があるということにしてはどうか。こんな考え方まで、出てくるんですね。ロジックとして、いかがでしょうか。ちなみに、私はこの考え方に賛成です。(Risk Utility Balance と言います。)

 

日本ではどうかと言いますと、アメリカからの圧力もあって、製造物責任法が制定されました。そこには、欠陥の定義について、こう定められています。「製造物が、通常有すべき安全性を欠いている場合」その製造物には、欠陥があるというんですね。言い換えれば、平均点以上であれば、欠陥はないということになります。いかにも、日本のお役人が作ったような感じがします。そこに、ポリシーは感じられません。そして、日本ではあまり裁判は起こりません。従って、議論もない。最新の事情は分かりませんが、多分、今日でも日本で欠陥と言えば、上記の条文通りの解釈が通用しているのではないでしょうか。

 

私は、必ずしもアメリカの制度の方が日本よりも優れていると言うつもりはありません。アメリカの制度も問題だらけです。しかし、一つ言えると思うのは、アメリカ人は、民主主義を維持するためのコストというものを決して、惜しんでいない。むしろ、そういうコストというのは必要なものなんだという共通認識があるのではないか。そう思うのです。また、陪審制というのは、これにもメリット、デメリットはありますが、一般の国民が判例法の蓄積に関与するシステムである、とも言えます。アメリカの制度というのは、一般の国民が、司法のみならず立法にも関与している。

 

アメリカでもトランプ氏のような人が大統領になってしまうことがある。そして、当然のごとくスキャンダラスな問題が発生する。この点は、日本と変わりがない。しかし、問題が起きてからの展開が違う。元FBIの長官は、議会で証言したのではないでしょうか。他方、日本の国会は、皆様ご存じの通り、幕を閉じました。前回の記事に対しまして、DENDAさんから的確なコメントをいただきました。有り難うございました。私も、同感です。