文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 135 集団スケールと政治の現在(その9)

(集団スケール一覧、本稿までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

 

皆様の中には、「そもそも集団スケールなんて言葉は聞いたことがないし、この原稿は一体どの分野の話をしているのかも、良く分からない。荒唐無稽ではないか」と思われている方がおられることと思います。無理もありません。私自身、そういう懸念と戦いながら本稿を書き進めているのです。但し、本稿に出てくるいくつかのトピックスについては、社会学においても検討されているようです。

それにしても、集団をスケール毎に分類して、何かを考えた人って、いつかどこかにいたのではないか。そう思って、我が友YouTubeに尋ねてみたのです。すると、いたんですね、そういう人が! なんと哲学者のヘーゲルが、とっくの昔に似たようなことを考えている。ヘーゲルの説は、概ね、次のようなものです。

 

家族というのは、互いに助け合うものだ。しかし、成人して市民社会に出て行くと、そこにはエゴイズムが渦巻いている。このように家族と市民社会は、矛盾している。この矛盾を解決するためには、一つ上の位相である国家に止揚アウフヘーベン)し、矛盾を調和させるべきである。

 

上記の説におきましても、明らかに人間の集団を家族 → 市民社会 → 国家という風に、その大きさで区分している。そこから先もちょっと似ているような気がするのですが、まずは本稿を進めることにしましょう。

 

さて、複数の民族を合体させようとする働きを持っているものの一つが一神教だと思います。「俺たちの信じている神のみが、唯一絶対の神だ。他の神を想定している宗教は邪教であって、彼らを改心させ、救ってやらねばならない」。こういう理屈で、宗教戦争が起こる。まあ、多くの場合、この理屈は侵略戦争のタテマエとして、使われてきたのかも知れません。ところで、一神教と同じような作用を持っているのが、イデオロギーではないか、と思うのです。現在、政治的な意味で世界を凌駕しているのは、資本主義と共産主義だと思います。とりわけ冷戦の時代には、2つのイデオロギーが世界を二分し、対立を続けていました。ただ、この問題は、既に決着がついていると思います。資本主義の方が、優れている。

例えば、中国の場合には、企業が土地を所有することは認められていない。中国に工場を建設しようと思ったら、国から土地を借りなければならない。その期間は50年だったと記憶していますが、この一事を取っても、無数の法律問題が想定されます。土地の使用権は、50年後に更新されるのか。その土地の上に建物を建てていた場合はどうなるのか。土地の使用料はどうやって決めるのか。途中解約はできるのか、その際の条件は 等々。法律に定められている事項もあるでしょうが、役人の裁量による部分も相当ある。これでは、経済効率が悪いばかりか、役人が汚職しやすい土壌があると言わざるを得ません。

ロシアのプーチン大統領だって、既に在職年数が長くなっているのではないでしょうか。ロシアも、あまり民主的な国には見えません。図式にしてみましょう。

資本主義・・・資本家 対 労働者

共産主義・・・官僚  対 国民

資本主義の場合は、労働者が資本家から搾取されると言われています。しかし、現在のように人材の流動化が進んで来ますと、労働者は転職をして、特定の資本家から逃ることができる。資本家の側にしても、ある程度の労働条件を示さなければ、労働者を雇うことができない。一方、共産主義の場合は、官僚が国民を支配している。この場合、海外へ移住でもしない限り、国民は官僚の支配から逃げることができない。

 

結局、宗教もイデオロギーも、仮説に過ぎないのではないか。神がいるはずだ、こういう社会システムがいいはずだ、という仮説だと思うのです。仮説であれば、それが反証された場合、若しくはもっと優れた仮説が出て来た場合には、それを取り下げる。それ位の柔軟性が、必要だと思うのです。そうすることが”科学的”だと思います。しかし、宗教とイデオロギーには、この柔軟性がない。その意味において、この2つは似ていると思うのです。あたかも錨を下ろした船のように、一つところに留まって、航海に出ようとしない。もっと暖かくて、もっと美しい場所があるかも知れないというのに。