文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 136 集団スケールと政治の現在(その10)

(集団スケール一覧、今回までに言及した部分)

1. 個人

2. 血縁集団

3. 帰属集団・・・顔と名前が一致する範囲

4. 組織集団・・・職業別団体、宗教団体、集票ターゲット

5. 民族・・・天皇制、宗教国家

6. 一神教イデオロギー・・・キリスト教イスラム教、共産主義

7. 民主国家

 

上に記しました一覧を見ても分かる通り、人間は民族、宗教、イデオロギーによって集団を分断し、互いに戦って来たものと思われます。他にも男女の別とか、階級とか、様々な要素があると思いますが、大所は前記の3つではないでしょうか。ところが、更に大きな集団を考えると、ここでコペルニクス的転回が生じるのです。すなわち、人間を集団によって分断しないんだ、という考え方が出てくる。「共存しようとする意思」と言っても良いと思うのです。あなたがどの民族であろうと、どの宗教を信じていようと、どのようなイデオロギーを持っていようと、構いません。それはあなたの自由です。共に生きていきましょう、と。そして、このような考え方は、国家という規模の集団において、具現化する。そのような国家をここでは「民主国家」と呼ぶことにします。

 

前述の考え方は、一般に近代思想と呼ばれているものと思いますが、その中核をなす発想は「共存しようとする意思」にあるのではないか。あなたの民族、宗教、イデオロギーにはこだわりませんよ、ということは、過度にあなたには干渉しませんよ、という意味であり、これがすなわち「自由」という概念に繋がっていると思うのです。更に、あなたの属性にはこだわりませんよ、という考え方から、「平等」という理念が生まれる。皆、平等なんだという前提条件から、その帰結として、多数決による「民主主義」という制度が生まれる。多数決で決めるためには、一人ひとりが良く考えて、自分の意見を持たなければならない。だから、個人が尊重されるべきだという価値観が生まれる。

 

「共存しようとする意思」に基づいて集団を運営するためには、法律が必要となります。何故なら、民族のトップである王様や天皇が物事を決めてはならない。教祖様に何かを決めていただく訳にもいかない。そして、特定のイデオロギーに基づく独裁的な政党に決定権を渡す訳にもいかない。そんなことをすれば、再び、集団間の対立が生まれてしまう。そこで、共存するためのルールを紙に書いて、皆で合意することにしよう、ということになる。これが法律であり、法治主義の起源だと思うのです。更に言えば、法律によって統治するに相応しい集団の規模はと言うと、それが国家ということになる。国家を統治するために特に重要なことは憲法に定めようという発想もあり、この考え方を立憲主義と呼ぶのだと思います。

 

ヘーゲルがどのような意味を込めて言ったのかは知りませんが、もし、上記のような意味であれば、民主国家という集団の位相は、明らかにそれ以前の集団を超えており、正にアウフヘーベンしている。

 

思えば、昨年の7月にスタートしたこのブログですが、入り口は文化人類学でした。しかし、文化人類学で分かるのは宗教までなんですね。そして私は幾度となく「敵と味方を識別して集団で戦うシステム」について、批判してきました。しかし、やっとここに至って、「敵と味方を識別しないで、集団で戦わないシステム」というものに出会うことができました。

 

「共存しようとする意思」。我が日本国憲法を貫く精神も、実はここにあるのだと思います。第14条1項を引用させていただきます。

 

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

感動を禁じ得ません。