文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 153 記号の時代としての現代

 

少し話が遡りますが、どうも現代人の関心事は、“記号”にあるような気がしてなりません。また、現代という時代を読み解くために、私は便宜上、“中間文化”という概念を提示させていただきました。これは、精神文化と物質文化の中間に位置するという意味で申し上げたのですが、では、その中間文化の実質は何にあるのか。それは、“記号”ではないか、という発想があったのです。もしかすると、文化を分解していくと、その最小単位は“記号”に行き着くのではないか。だとすれば、“記号”が分かれば文化も分かる。そんな希望も抱いていたのです。

 

現代社会の街並みというのは、記号に溢れている。また、インターネットを開きまと、まずYahooだとかGoogleポータルサイトが表われると思うのですが、そこはほぼ100%、記号によって構成されています。そもそも、コンピューターというのは電子信号を利用して稼働している訳ですが、これも記号です。最近、ユルキャラなどと言われる着ぐるみが流行っていますが、これも記号ですね。

では、“記号”とは何か、という話になる訳で、今、私は「記号論入門」(文献1)という本を読んでいるのですが、75頁まで来たところで、未だに記号の定義についての説明が続いているのです。最も簡略に記載された記号の定義は、次の通りです。「他の何物かの代わりになる何物か」。これでは良く分かりませんが、この話は後日に譲ることにさせていただきます。

 

さて、このブログでは何度か、古代人と現代人の類似性について指摘させていただきましたが、古代人の関心事も現代人と同様に、記号にあったのではないかと思うのです。言葉という記号のシステムを作りつつあった古代人は、動物や植物に名前を付けていった。狩りに出かけた先で、オオカミの匂いを感じる。これは危険を意味している。これも記号の一種です。ある時、村の長老が「オオトカゲと巨大な蚊が結婚して生まれたのが、我々の祖先だ」と言うと、その部族はオオトカゲ・グループとして、他のグループと識別される。これがトーテミズムですが、この識別システムも、結局のところオオトカゲという記号に依拠している。

 

精神文化と言いますか、各時代の人々の関心事を考えてみましょう。古代人の関心事が、“記号”だとすると、中世の人々は想像力により記号を体系化し宗教を作った。やがて、ニーチェダーウィンが宗教を否定し、近代思想は民主主義という理想を掲げた。

 

古代・・・記号
中世・・・宗教
近代・・・民主主義 (国民主権基本的人権の尊重、平和主義)
現代・・・???

 

ここで言っている民主主義というのは、多様な人間同士、共に生きようとする近代の人々が生み出した思想のことです。しかし、いつまでたっても、理想的な民主国家というのは実現しない。例えば、最近アメリカの教会で銃の乱射事件があり、26人が死亡するという事件がありました。これに対してトランプ大統領は、「犯人は精神疾患を患っていたという情報がある。これは銃規制の問題ではなく、精神疾患の問題だ」と述べていました。私は、この大統領は、どこかの開発途上国の代表者ではないのか、と思ってしまいました。言うまでもなく、現代社会において精神疾患を患っている人間というのは、高い比率で存在する訳です。これをゼロにするのは、銃を規制するよりはるかに困難です。アメリカでさえ、こんなレベルにしかない。

 

宗教と民主主義を失った現代人には、何もなくなってしまった。いや、現代人は古代人と同じように、記号に向き合い始めたのではないか。そうだとすると、現代人は、新たなスタートラインに立っているのかも知れません。例えば、こんなイメージで捉えることができる。私の眼の前に螺旋状の階段がある。私の正面に古代人が立っていて、今、正に階段を上り始めようとしている。同じく、私の正面に現代人が見える。彼も同じ階段を上っている。しかし、現代人は古代人よりも3段階、上に位置している。

 

例えば、現代人は民主国家という全体像を示すジグソーパズルを並べている。しかし、それを完成させるために必要な、あと2つか3つのピースが見つからない。そんな風に考えることもできます。それとも、かつて近代思想が宗教を否定したように、民主国家という概念自体を否定し、更に上を行くような価値観が生まれるのかも知れません。

 

(参考文献)
文献1: 記号論入門 (記号概念の歴史と分析)/ウンベルト・エコ/而立書房