文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 157 消えた実体、意味の喪失

前回の原稿で、記号論に関する検討には一区切りつけるつもりだったのですが、そうもいかないような気がしてきました。記号論の前身である言語学まで含めますと、その歴史は古代ギリシャにまで遡るようです。またソシュールの後には、チャールズ・パース(1839~1914)という人がいて、複雑な理論体系を構築したようです。ちなみに、パースは「人は、記号である」というところまで行き着いたようです。何だか難しそうですね。更に、パースの後には、以前の原稿で「何かが記号であるのは, それがある解釈者によって何かの記号として解釈されるからである」という言葉を引用させていただきましたチャールズ・モリス(1903~1979)がいます。

さて、前回の原稿で提示致しました人間の認知、行動に関わる概念モデルですが、本当にそうだろうか、という疑問も沸いてきました。便宜上、再度、掲載致します。

 

実体・・・記号が指し示す事柄
 ↓
記号・・・物の機能、人の意図
 ↓
意味・・・価値判断。自分と記号、対象との関わり
 ↓
反応・・・行動、思考、心理的作用

 

まず、古代人が獲物に向かって石を投げるまでのプロセスを考えてみます。

 

実体・・・足元に“石ころ”が転がっている。
記号・・・“石ころ”だという言葉と同時に、その機能を理解する。
意味・・・自分と獲物の距離、“石ころ”の機能、自分が空腹であることなどを判断する。
反応・・・獲物に向かって、“石ころ”を投げる。

 

上記の場合、うまく当てはまっているようです。次に、伝統的なお寿司屋さんの例で考えてみましょう。

 

実体・・・寿司屋の大将
記号・・・熟練の技で握られた寿司、美しい皿、季節の花などの添え物
意味・・・大将の技、女将さんのもてなし。高額の支払いなど。
反応・・・満足感をもって、寿司を食べる

 

上記の場合も、うまく当てはまるようです。財布の心配さえなければ、ということではありますが・・・。では、回転寿司の場合は、どうでしょうか。

 

実体・・・無し
記号・・・パネルにタッチして、注文する。
意味・・・無し
反応・・・寿司を食べる

 

多くの場合、回転寿司では作っている人の顔は見えません。パネルにタッチして注文すると、寿司がおもちゃの電車に乗ってやって来るような店もあります。考えてみますと、このように「記号があって、それに反応する」という、ただそれだけで完結するケースは、決して少なくないような気がします。例えば、シューティング系のゲーム。記号としての敵が画面に現われ、それを攻撃する。マンガも同じだと思います。多くの場合、そこに実体と意味はありません。ピコ太郎の動画を見て、真似をして踊るイバンカさんの娘なども同じです。古い所では、怪談などもそうだと思います。そもそも、幽霊というのは実体がない。よって、怪談というのは作り話なんです。しかし、それを聞いて「キャー、怖い!」などと反応する。そもそも、エンターテインメントと呼ばれるジャンルの構造というのは、そういうことになっているのかも知れませんが、現代において、この傾向は確実に強まっている。

 

その理由を考えてみますと、一つには大量生産によって、商品やモノの作り手の顔が見えなくなったこと。二つ目としては、グローバル化に伴って、言語以外の記号(マーク、ロゴなど)が増えたこと。三つ目としては、ハイテク化、ネットの普及によって、現代人が触れる記号の総量が爆発的に増加した、ということが考えられます。結果として、実体と意味が失われ、ただ記号に反応するという人間社会が生まれつつある。

 

本当にそれでいいのか疑問を禁じ得ませんが、ここでいいとか悪いとか言っても、それこそ意味がないような気がします。ただ、この実体と意味の喪失という現象は、すぐそこまで来ている人工知能とバーチャル・リアリティによって、更に、急速に、確実に進展するでしょう。

 

最近、ネットに出ていたのですが、ある青年が、AKB系のアイドルに入れ込んで、貯金の1千万円を使い果たしてしまったそうです。アイドルというのは、記号です。少なくとも、記号の総体だと言えます。彼女たちは、芸名を付けて、歌い、踊り、笑顔を見せてメッセージを発信しています。それは虚像であって、現実の少女の姿ではありません。しかし、記号化されたアイドルに夢中になって、その青年は“意味”を考えることができなくなった。この場合の意味とは、自分と、そのアイドルの実体、そして記号として発信されるメッセージの相関関係のことです。その青年は、実体を見ることなく、意味も考えずに、ただ記号に反応してしまった。

 

しかし、そのアイドルの実体とは何か、という疑問もあります。一人の少女を分解していきますと、究極的には、それを記号で表わすことが可能なのかも知れません。彼女は言葉、すなわち記号によって考えています。彼女の好きなもの、嫌いなもの、身体的な特徴、これらも全て記号化することが可能でしょう。

 

このように考えますと、冒頭に引用しましたパースの言葉が、身に染みて来ます。

 

「人は、記号である」