文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 159 文化進化論とは何か(その2)

本文献における一つの山場は、進歩と進化という点にあるようです。

 

まず、進歩の方から。19世紀のアメリカにルイス・ヘンリー・モーガンという人類学者がいたそうで、この人は「あらゆる人間社会が経てきた、あるいは今後経ることになる、7つの段階を提示したそうです。それは、次のようなものでした。

 

野蛮な状態・・・低位、中位、上位

未開の状態・・・低位、中位、上位

文明社会

 

そして、欧米の社会こそが文明社会であって、他の地域は野蛮若しくは未開であると位置付けたのでした。このような考え方は、当時の人種差別主義や植民地主義に理論的な基礎を与えることとなります。20世紀に入りますと、このような考え方は嫌悪の対象となります。(レヴィ・ストロースが果たした役割というのも、この辺りだと思われます。) そして「今日、多くの人類学者や社会学者が、新たな文化進化論の構築に慎重なのは、それが、科学的に疑わしい、政治的動機を持つ19世紀の文化進化論とつながっていると誤解されているからだ」ということになります。

 

生物学における進歩の概念には、次の特徴があります。

 

1 獲得形質は、遺伝する。(例: 体を鍛えて筋肉を増強した人の子供は、筋肉質になる。)

2 生物は段階的に複雑さを増し、累進的に進歩していく。

 

上記の考え方は、ダーウィンとそれに続くネオ・ダーウィン的な人々によって、否定されます。ちなみにダーウィンは遺伝子の仕組みまでは理解していなかったそうで、この点はネオ・ダーウィンの人々が解明したそうです。ダーウィンの進化論は、変異、生存競争、遺伝の3要素で成り立っているそうですが、これに加えネオ・ダーウィンの人々は、進化について、次の特徴を指摘したそうです。

 

1 獲得形質は、遺伝しない。

2 変異は無目的に起こる。

 

そこで本文献では、問題に直面するのです。では、文化は進歩するのか進化するのか。本文献は、蒸気機関の例などを挙げ、文化が進歩する可能性を指摘しています。結論は曖昧で、次のように記されているのです。「文化進化は場合によっては意図的に導かれ、その点において生物の進化とは確かな違いがあるということを、受け入れる心づもりをしておくべきだ」。

 

そもそも、「文化の進化はダーウィニズムによって説明できる」というのが本文献の基本スタンスな訳で、「文化は進化ではなく、進歩する場合がある」という上記のコメントには、著者の並々ならぬ苦渋が感じられます。

 

そこで、私の所感を述べさせていただきます。そもそも、本文献においては文化を情報であると定義している。そこに問題があるのではないかと思うのです。文化とは、もっと複雑だと思うのです。例えば、精神文化と物質文化がある。そして、その中間に位置する文化領域がある。もしかすると、私が便宜上、中間文化と読んだものが、世間では表象文化と呼ばれているのではないか。(この点は、今後の課題です。)

 

例えば、物質文化について考えてみましょう。私の眼前のテーブル上には、文化的な物質が沢山あります。そして、驚いたことに、その全てが何らかの機能を持っているのです。例えば、腕時計、灰皿、ハサミ、テレビのリモコンなど。逆に言えば、私の家の中には、機能を持っていない物体は、1つもありません。物質文化と言いますか、文化的な産物と言った方が良いかもしれませんが、これらの本質の1つには、機能ということがある。しかし、それだけではない。それぞれの物体が、何らかのイメージと言うか、主張のようなものを持っている。それは、色彩、形状、大きさなどによって表現されているのです。例えば、私の腕時計はシチズンのEco-Driveというものです。決して高級ではありませんが、最先端の技術を使っているんだぜ、というような主張をしています。このように、文化的な産物というのは、機能とイメージ(暫定的にこう呼ばせていただきます)の2つの要素から成り立っている。そう考えますと、機能の方は確実に進歩している。他方、イメージ(色彩、形状、大きさなど)は、進化している。すなわち、いろんなパターンが無目的に製造され、消費者が選択したものが流行する、ということではないでしょうか。

 

精神文化と物質文化は、ある程度分かってきたような気が致します。あとは、表象文化が分かれば、私なりの文化論ができあがるような気がしています。