文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

No. 164 記号学のパースが面白い(その1)

私たちは何者なのか。この問いに応えるために、まず、言葉とは何かを考える人々が登場したのだろうと思います。人間は肉や野菜を食べるし、夜には眠る。しかし、これらの行動は、他の動物も同じです。では、人間の特徴とは何か。誰もが思い浮かべるのは、人間が言葉を使って物事を考え、コミュニケーションを取るということではないでしょうか。そうしてみると、目には見えない人間の心の中もきっと言葉に溢れているに違いない。そして、言語学という学問が成立する。しかし、よくよく考えてみると、人間が何かを認知し、何かに反応する際、そのきっかけとなるのは言葉だけではない。例えば、ドアをノックする音を聞いて、私たちは誰かの来訪を知る。雷鳴を聞くと恐怖感を抱く。従って、言葉という概念をもう少し広げて考えた方が良いのではないか。そこで、“記号”という考え方が生まれた。

 

アメリカ人のパース(Charles Sanders Peirce 1839-1914)は、現代記号学の創設者の一人であると共に、哲学者、論理学者、数学者、物理学者、科学者でもあったと言われています。

 

さて、今回の原稿では、主に「パースの記号学/米盛裕二/勁草書房/1981」(以下「本文献」といいます)を参考にさせていただきます。本文献を読みますとパースも大変な人物だったことが分かりますが、負けず劣らず、著者である米盛氏の力量にも感服致しました。河合隼雄氏が日本にユングを紹介したように、米盛氏が日本にパースを紹介したと言われています。学者の仕事というのは、こうあるべきなんだと納得した次第です。

 

本文献によりますとパースの前半生は、幸福なものだったそうです。名門ハーバード大学を卒業し、広く学会で活躍した。しかし、彼の偏屈な性格が災いし、永年求め続けていた大学教授のポストに就くことはできず、48才にして隠遁生活に入った。以下、本文献から引用させていただきます。

 

「後半生はあらゆる職を失って貧困と孤独と病苦のなかで過ごした不運な人であったと言われています。(中略)そして、最後の数年間は一文なしの極度の窮乏と不治の病に苦しみながら、それでもなお最後まで、出版の当てのない難解な学説を書きつづけ、莫大な手稿を遺して、1914年4月19日に世を去った。」

 

偏屈で、孤独で、貧乏で、年老いたパースの顔が思い浮かびます。そして、パースの死後20年がたち、やっとパースの論文集が刊行されたそうです。こういう話に接しますと、何故か親近感を覚えてしまいます。この点はおくとしても、私はソシュールよりもパースの方が面白いと思います。

 

ところで、以前の原稿でパースが「人は、記号である」と述べたことに触れました。この点、パースのロジックは次のようなものだったようです。

 

われわれは記号を使わずに思考する能力を持たない。全ての思想は記号である。
全ての思想は記号であるという事実と、人間の生活は思想の連続であるという事実から、ゆえに人間は記号であるということが証明できる

これを図式にしてみましょう。

 

思想(A)=記号(B)
人間(C)=思想(A)
よって、人間(C)=思想(A)

 

これは論理学上の“演繹”でしょうか。論理的に破たんはしていませんが、本当にそうかなと思われる方が多いことと思います。結論は急がず、先に進みましょう。

 

パースの記号学においては、“記号過程”という概念が提唱されています。パースは「われわれの認識と思考を本質的に『記号過程』としてとらえ」ていたのです。“私たちが記号を通じて何かを認識し思考するプロセス”が記号過程である、と言い換えても良いと思います。そしてパースは、記号過程は次の3つの要素から成り立っていると考えました。

 

(1)記号として働く何かある性質をもったもの
(2)その記号が表意する対象
(3)記号とその対象を関係づける解釈思想

 

上記の3要素は三位一体となっていて、一つでも欠けた場合に記号過程は成立しないとパースは言っています。もう少し、中味を見ていきましょう。まず、(1)については、とりあえず、“記号”であると考えて良さそうです。(2)については、「表意」とは何かという問題があります。この点、本文献の著者である米盛氏は、次のように解説しています。

 

「表意する」とは目のまえにあるものによって目の前にないものに言及すること

 

そうしてみると、例えば「昨日、パスタを食べた」という発言があった場合、目の前にないものとはパスタであり、発言に含まれるパスタという言葉が記号であることになります。よって、(2)で言及されている対象というのも、この場合、パスタであることになります。しかし、この発言を聞いた人は、そのパスタがどんなものだったのか、すなわち味付けがどうで、茹で加減がどうで、ということまでは分かりません。そこでパースは、「記号のうちにその姿を現わす限りのことしか」認識することができない、と述べています。例えば、雷鳴が響く。私たちは、雷だ、怖いなと感じる。しかし、私たちは雷の実体を認識することはできず、音として聞こえる雷鳴、すなわち記号が表わす範囲内のことしか認識できないということです。そこでパースは「存在と記号は同義であり、存在はすなわち記号であり思想である」と述べるのです。これはとても観念的な考え方だと言えます。

 

そして、(3)の解釈思想についてですが、これは「記号が記号であるためにはそれを記号として解釈し使用するなんらかの解釈思想が存在しなければならない」と説明されています。すなわち、単語の意味や文法など、日本語を理解する素養を持った人でなければ、日本語を理解することはできません。そのような記号を解釈するために必要な、話し手と聞き手に共有されているルールのようなものが“解釈思想”であることになります。これは、ソシュールが述べた“ラング”という概念に近いものと思われます。

 

注)本文献におきましては、上記の“解釈思想”という用語と“解釈内容”という用語が用いられています。これら2つの用語は、厳密には意味が異なるようにも思われます。英語表現は、次の通りです。

解釈思想・・・the interpretative thought of a sign
解釈内容・・・interpretant

 

いずれに致しましても、パースの記号過程という概念は、簡単に次のように記すことが可能かと思われます。

 

(1) 記号
(2) 記号が指し示す対象
(3) 解釈者が記号を理解するために要求される素質

 

そして、パースは次のように述べるのです。

 

「すなわちすべての認識と思考は記号過程であり、記号過程は本質的に連続的過程である」