文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 166 記号と文化

今回は、一つのテーゼを提出させていただき、その内容について考えてみることに致します。そのテーゼとは、次の一文です。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

ポイントとなる用語が2つ出て来ます。一つには“記号”であり、二つ目は“意味”です。これらの用語を定義づけることは大変困難ですが、私なりに向き合ってみたいと思います。

 

思うに記号とは、言葉、標識、音、色彩、形状、人間の表情や仕草、行動などであって、何らかの対象を代理して、人間によって認知されるものである。また、人間は特定の個人や人間集団、その他の事柄を記号によって認知しているのであって、記号とはそれらを識別するための手段である。

 

ちょっと、複雑ですね。簡単に言えば、記号とは何らかの対象を代理している。この対象とは、物質のみならず抽象的な概念なども含みます。いくつか例示してみましょう。

 

種別 - 記号   - 対象
言葉 - リンゴ  - 赤い果物
標識 - 道路標識 - 交通ルール
音  - サイレン - 非常事態の発生
色彩 - 赤信号  - 止まれという命令
形状 - 流線形  - スポーツカーの性能
表情 - 微笑む  - 楽しいという心理状態

 

次に“意味”とは何か。私は、この言葉をあまり抽象的に考えてはいません。例えば、何の変哲もないある平凡な1日がある。しかし、人間はこの1日にクリスマスという意味を付与する。そして、これは自分に関係があると思う人はプレゼントやケーキを買ったりする。他方、私には関係がないと思う人には、クリスマスは何の意味ももたらさない。こういうことではないでしょうか。すなわち、全ての記号が意味を持っている訳ではない。

 

例えば、本屋さんの本棚の前に立っているとしましょう。本の背表紙には言葉が書かれています。これらは、全て記号です。しかし、全ての本の背表紙が私たちに何らかの意味をもたらすかと言えば、そうではありません。例えば、背表紙に刻まれている文字が、あなたの知らない外国語だったとしましょう。この場合、その記号はあなたに何ら意味を持つことはありません。まず、記号がある。そして、その記号は、理解可能であるか、というフィルターに掛けられる。これが、ソシュールが言ったラング(言葉の意味や文法など)であり、パースが言った解釈思想だと思うのです。例えば、私にはクラシック音楽を理解するという素養がありません。従って、例えば喫茶店でそのような音楽が流れていたとしても、私の心が反応することはないのです。

 

私たちは、街を歩いていても、部屋の中に居ても、記号に囲まれて生活しています。私たちの周囲は、記号だらけです。しかし、その中から、まず理解できない記号というのは私たちの認知システムに入ってこない。そして、私たちは理解できる記号の中から、更に記号を選別していると思うのです。その記号は、自分に対し、何らかの価値をもたらすか。価値が認められれば、私たちはその記号に反応する。中には、赤信号など私たちに危険を知らせるような記号もあります。これも危険を回避できるという観点から言えば、このような記号にも価値があると言えそうです。

 

このように無数の記号の中から、まず解釈可能な記号を選別し、次に自分との関係で価値のある記号を抽出する。こうして選ばれた記号を通じて、私たちは“意味”を発見するのだと思うのです。冒頭に記したテーゼの前段は、ご理解いただけたでしょうか。

 

人は記号を通して意味を発見し、
 記号に働きかけて意味を創り出す。

 

では、後段に移りましょう。人間の衣食住に貢献する物質文化に意味を見つけるのは簡単です。文化物質というのは、全て、機能を持っている。だから、その機能が意味と同義だと言えます。ボールペンなら文字を書くことができる。コーヒーなら飲むことができる。しかし、衣食住だけで、換言すれば物質文化だけで、人間が生きてきた訳ではありません。なんとかして、不思議な自然現象を理解し、死者を悼み、病気や怪我などに対処する必要があった。そこで、人間は記号に働きかけて、意味を創り出してきた。記号論の立場からすれば、それが精神文化の本質だと言えるような気がします。では、例を挙げましょう。

 

人間は、自然現象などを理解するために、言葉という記号に働きかけ、“神話”を作り、意味を付与してきた。

(このブログでは長らく“物語”という言葉を用いてきました。神話とは、例えばギリシャ神話のように、実際、神々が登場する物語を指すのではないかと思ったからです。しかし、世間一般では、特に神々が登場しない物語も“神話”と呼んでいるようなので、この言葉を使うことにいたします。)

 

人間は、動植物を記号として用いることによって、集団のアイデンティティーを確立してきた。これが“トーテミズム”である。(オオトカゲ・グループなど)

 

人間は、何らかの願いを叶えるため、モノを記号化し、“呪術”を行ってきた。

 

呪術は、その後の宗教や芸術に大きな影響を及ぼしてきました。未だに占いなどは、流行っています。ここでは典型的な事例として、呪いの藁人形を検討してみます。

 

対象・・・殺したいほど憎い人
記号・・・藁人形。対象を代理する。
行動・・・五寸釘を刺す
意味・・・呪い

 

これは、次のように表記できそうです。

 

対象 + 記号 + 行動 = 意味

 

もともと、記号に意味はないのです。そこに上記のようなプロセスを経て、意味を付与している。ただ、全ての事例が上の図式に従っているとは言えません。てるてる坊主の場合は、もっと簡単です。

 

記号・・・てるてる坊主
行動・・・軒下に吊るす
意味・・・翌日の好天を願う

 

記号 + 行動 = 意味

 

このようにいくつかのバリエーションがあると思いますが、そこに登場するキーワードは、数個ではないかと思っております。

 

さて、神話、トーテミズム、呪術と来ましたので、先を続けましょう。

 

精神文化の一種で、“祭祀”ということがあります。これは祭りや儀式のことです。祭祀において人間は、自らを記号化していると思います。ファッションや刺青がその例です。記号化された人間が、神輿を担いだり、踊ったりする。祭祀を行うためには、これらがとても重要なんだと思います。祭りの時には大体、お揃いのハッピや浴衣を着ます。結婚式や葬式では、皆、正装しますね。

 

記号(服装) + 行動 = 意味

 

そして、今まで述べてきました神話、トーテミズム、呪術、祭祀などを体系化したものが、“宗教”ではないでしょうか。このように精神文化は、人間が創り出した意味に溢れている。

 

では、現代人は未だに意味を求めているのでしょうか。私は、そうだと思います。一見、意味のない若者の行動などを観察しますと、やはり、そこには意味がある。例えば、ハロウィン。多くの写真が示しているように、ハロウィンでは、友人たちが集まって、同じような格好をしています。ということは、同じような格好(記号)をして街を練り歩く(行動)ことによって、彼らは友情を確認しているんだと思います。

 

日馬富士暴行事件を繰り返し報道するワイドショー。視聴者は、記号化された登場人物の誰かに自らの立場を投影して、意味を感じているのだと思います。

 

このブログでは、古代と現代の奇妙な符号について、何度か述べて来ました。その理由も、分かるような気がします。すなわち、意味の体系である宗教が花盛りだったのは、中世です。古代においては、まだ、体系化の途中段階にあった。すなわち、古代人というのは、記号を通じて、意味を創り出す途上にあった。一方ダーウィン以降、宗教は下火となり、日本のような先進国の現代人は、宗教に強い意味を感じなくなった。すなわち、意味を失ったと言えるのではないでしょうか。だから、意味を見つけにくいという観点から、古代と現代には共通点がある。

 

古代・・・宗教が完成しておらず、意味を探していた。
中世・・・宗教が意味を提供していた。
現代・・・宗教が衰退し、意味が喪失した。

 

現代に生きる私たちにとっては、新たな意味を発見する、または新たな意味を創り出すことが課題だ、と言えそうです。