文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 167 ”記号密度”という考え方

 

大晦日には、新年のカウントダウンで、渋谷の交差点に若者が溢れかえったそうです。本日、1月2日には、初売りセールでデパートが賑わっているそうです。イスラエルでは水不足で、嘆きの壁に向かって雨乞いの儀式が行われているそうです。皆、“意味”を求めているんですね。かく言う私も、“意味”を求めて、このブログの記事を書いています。

 

さて、文化の進化というものは、なかなか見え難いものです。特に、人生経験の少ない若者たちにとってはそうでしょう。しかし、私のように61年も人間稼業をやっておりますと「世の中随分変わったものだなあ」などと思う訳です。何が変わっているのか。まず、精神文化はどうか。これは、1947年に日本国憲法が公布されて以来、その歩みを止めているように思えます。次に物質文化ですが、これは各々の文化物質が、その機能性を向上させ、各段の進歩を遂げた。この点、異論のある人はおられないでしょう。しかし、中間的な文化と言いますか、芸術・エンターテインメントの世界が、一番変わったような気がするのです。そして、この変化は人々のメンタリティをも変えてしまった。その理由を考えているうちに、“記号密度”という言葉を思いついたのです。

 

例えば、様々なデータをパソコンに記録させる際、そのボリュームが気になりませんか。テキストデータ(文字)であれば、気にする程のこともありません。しかし、これが画像(写真)になると、結構なボリュームになります。更に動画となりますとデータ量が多く、取り込み過ぎますとパソコンが重くなったりします。そしてパソコンという文明の利器は、明らかにそのデータボリュームを増加させる方向で進歩している。このパソコンの傾向と、中間的な文化の進化の傾向は、リンクしていると思うのです。

 

私たちは、より新鮮で、刺激的な記号を求めてきた。見慣れた風景、日常的に接している文化物質など、そこから私たちが強い刺激を受けることはありません。だから、人々は時として旅に出る。より刺激的な、記号を求めていると思うのです。次に、記号の量ですが、これも私たちは、より多くの記号に接することを望んでいると思うのです。この記号の質と量を表わす用語として、“記号密度”という言葉を使わせていただきたいと思うのです。これは、次の式で表現できます。

 

記号密度 = 記号の質 × 記号の量

 

例えば、まずラジオ放送があって、白黒テレビができる。やがて、カラーテレビが普及した。明らかに、記号密度が高まっている。更にゲームになると、そこに自らが参加することによって、記号がより刺激的なものとなる。このように考えますと、若者たちがゲームにハマってしまう理由が分かります。圧倒的に、記号密度が高いのです。

 

もちろん、本当にそれでいいのか、という気持ちが私にもあります。例えば、記号密度は低いけれども、人間にとって基本的な行為類型の一つに、文章を読む、話を聞くというものがあります。これはソシュールが指摘した通り、“線状性”を持っている。すなわち、あたかも一本の線のように、言葉が指し示す単一の意味を順に追っていく訳です。これは、記号密度が低い。しかし、そもそもロジックというのは、この線状性を有する言語表現でなければ、表現することができません。ロジックとは例えば「A = B、B = C、よってA = Cである」というようなものだと思うのですが、これは、写真や動画では表現できません。

 

線状性を持った言語表現の一つとして、小説があります。小説は必ずしも、ロジックを表現するものではありませんが、そこにはストーリーを語る視点というものがあります。これには一人称と三人称とがありますが、どちらの場合においても、ある状況の中で登場人物が何をどう感じて、どう行動するか、ということを追体験していく訳です。そのような体験を通じて、すなわち小説を読むことによって、人間は他人の心の中を垣間見ることができるのです。

 

私の場合は、もう50年も前に読んだ小説の影響を未だに受け続けています。例えば、それは石森延男氏が書いた「コタンの口笛」という作品であったりする訳です。これは、児童文学と呼ばれるジャンルの作品です。コタンというのは、アイヌの村のことで、主人公はアイヌ人の少女だったように記憶しています。その少女が和人から差別を受けたり、時には和人の優しさに接したりする。50年前の私はこの小説を読んで、人種差別は絶対にいけないことだと心に刻んだのでした。人の心を動かす揺るぎない小説の力というものが、ここにある。

 

今の子供たちは、このように優れた小説を読んでいるのでしょうか。だとすれば、こんなにイジメが問題になることもないのではないか。イジメ問題を解決する最善の策は、優れた児童文学を普及させることではないか。そんな風に思ったりもします。

 

また、現在の若者たちというのは、論理的な思考能力が低下しているのではないか。ロボットを東大の入試に合格させるというプロジェクトを遂行している人工知能の専門家がおられます。彼女はある時、簡単な日本語でも人口知能は思わぬ誤解をするということに気付いたそうです。そこで、中高生に同じ問題を与えたところ、中高生の中にも人口知能と同じミスを犯す者が少なくなかった。彼女は、こう言っていました。「人口知能よりも、人間を教育する方が先ではないかと思った」。

 

文章を読まない。だから、論理性が衰え、他人の気持ちを推し量る能力も低下している。そんな若者たちが、増えているのではないでしょうか。

 

問題は、こればかりではありません。仮に、人間が1分間に認知できる記号の数が、10だったとしましょう。そして、昭和世代の若者が暮らしていた環境は、現在よりも記号密度が低かった。すると、どんなことが起こるか。

 

昭和:・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・/記号密度が低い。好奇心は遠くまで
平成:・・・・・・・・・・/記号密度が高い。好奇心は身近で充足される

 

私などの世代は、記号密度が低かった。そして、身近な環境だけで好奇心を充足することができなかったように思います。そこで、ジョン・レノンだとかゴッホだとか、外国の偉人たちにも興味を持った。一方、記号密度の高い環境に暮らしている現代の若者たちは、身の回りだけで十分に好奇心が充足されているのではないでしょうか。言い換えれば、視野が狭くなっている。

 

前回の衆院選における投票率は、53%位だったと記憶しています。つまり、2人に1人は投票に行っていない。政治に意味を見出すことのできない人が、それだけいるということです。これは、若者に固有の傾向とは言えないかも知れませんが・・・。

 

私たちは、時間と空間の中に生きています。確かに現代の若者たちは、昭和世代に比べると、頻繁に海外旅行に出掛けたりします。これは、空間の移動ですね。従って彼らは、空間という意味では、幅広い視野を持っている。しかし時間とは、すなわち歴史だと思うのです。過去の歴史において、誰が、いつ、どこで、何を考えていたか。こういうことを知るためには、やはり本を読む、文章を読むのが一番だと思うのです。

 

“線状性”から離れ、記号密度を高め続けてきた結果、現代の若者たちは論理性、想像力において衰弱しており、視野も狭くなっている。これは“退化”ではないのか。それとも、私たちの尻尾が退化してなくなったように、退化も進化のうちなのでしょうか。

 

私がこのブログでどんなにボヤいた所で、上記の傾向に歯止めが掛かるはずはありません。これからも、芸術・エンターテインメントの分野は、記号密度を高める方向で進化していくでしょう。問題は、このような若者たちのメンタリティにおける“退化”の先に何が待っているのか、ということかも知れません。