文化で遊ぶ

(旧タイトル:文化の誕生)

No. 173 人々を突き動かす心的イメージ

 

少し、ブログ更新の間が空いてしまいました。この間、日本は寒波に襲われ、草津では火山が噴火しました。皆様は、無事にお過ごしでしょうか。

 

私はと言うと、相変わらずビートルズを聞き、風呂上がりのビールを楽しんでおりました。昨日は、ちょっと駐車場の雪かきをしたのですが、そのせいか今日は若干の筋肉痛です。カントの純粋理性批判も少し読み進めてはいたのですが、中々、進みません。とにかく難しい。この人、本当に自分でも分かった上で書いているのだろうか、などと思う訳ですが、どう考えても、カントと私では勝負にならない。それにしても、世の中に楽しいことは山ほどあるはずなのに、何故、私はこんな七面倒くさい本を読んでいるのだろう。そもそも、良くも分からない本を読み続けることに意味はあるのか。そういう訳で、カントは少し先送りにすることとして、一昨日から、ミシェル・フーコーの「言葉と物」という大変興味深い(?)タイトルの本(文献1)を読み始めました。この本には、例えば次のような一節があります。

 

「記号に語らせてその意味を発見することを可能にする知識と技術の総体を解釈学と呼び、記号がどこにあるかを見わけ、それを記号として成り立たせているものを規定し、記号同士のつながりと連鎖の法則との認識を可能にする知識と技術の総体を、記号学と呼ぶことにしよう。」

 

こちらも決して簡単ではありませんが、こういう話であれば私にも理解できる。少なくとも、カントよりは平易だと感じるのです。同じフランス人ということもあって、フーコーは少しソシュールに似ているような感じもします。例えば、「言語」という日本語に「ランガージュ」とルビが振ってある。確か、(ランガージュ=ラング+パロール)だった。従って、厳密に言えば(言語=ランガージュ)ではない。翻訳者も大変だな、などと思うと少し親近感が沸いて来たりもします。(詳細はこのブログのNo. 155)

 

ところで、私は以前、バイク(オートバイ)に乗っていました。40年前には、スズキのGT250、20年前には同じくスズキのバンディット400。だから、私にはバイクの魅力が分かるのです。走り込んでいくと、エキゾーストパイプが虹色に光ってくる。街中でそんなバイクを見ますと、未だに「いい色に焼けてるなあ」などと思ったりします。懐かしさもあって、YouTubeでバイクの動画を見たりしていたのですが、これが実に面白い。

 

昔は、最大級のバイクと言えばナナハンだった訳ですが、最近は国産でも1300CCが出ています。また、かつてバイクの最高速というのは200キロ位だったと思うのですが、今のバイクは、市販のものでも300キロは出るんですね。そして実際に300キロで走るバイクの映像が沢山ある。しかも、カメラの小型化や技術が進歩していて、最近は簡単に運転手の視線で、動画が撮影されているのです。これはもう臨場感が凄い。あたかも、自分の運転するバイクが時速300キロで疾走しているような感覚が味わえるんです。流石に国内の動画で300キロ出している場所はサーキットですが、海外の動画では高速道路などを走っているものもある。改造バイクで時速400キロを記録した動画もある。怖いですね。想像しただけで、膝が震えてきそうです。

 

バイクの動画と言っても、内容はいろいろあって、例えば、評論家の「試乗インプレッション」というのもある。ここの部品がどうだとか、トルク性能がどうだとか、説明する訳です。こういうのも、何となく、見ていて楽しい。また、バイクの運転技術という意味では、やはり白バイの人たちが凄い。やみくもにスピードを出すのではなく、状況に応じて、バイクをコントロールしているんですね。

 

小柄な女性が倒れた大型バイクを起こせるか、という問題もあります。結論から言えば、起こせます。コツがある。そういうコツを教えてくれる動画というのも、結構あります。例えば、動画に身長150センチ弱の女子高生が登場する。まだ、免許は持っていないが、いずれはバイクに乗りたいと思っている。やってみると、彼女が一発でバイクを起こしたんです。ユーチューバーがインタビューする訳ですが、どうやら彼女の父親がバイク好きらしいんです。「免許を取ったら、どんなバイクに乗りたいの?」と聞かれると、彼女は「SR!」と答える。これは単気筒のバイクで、相当なツウが好むタイプなんです。彼女はきっと、お父さんが好きなんでね。そして、お父さんが好きなバイクがSRなんです。

 

「初心者の女性が、免許を取りに教習所に通う」というパターンの動画もあります。その昔、私も教習所に通った訳で、そんな経験を思い出します。狭くて何の変哲もない、教習所のコース。しかし、通っている人たちにとっては、そこにクランクがあり、8の字があり、一本橋がある。そのような目で見ると、教習所のコースというのは、一つの世界を構築している。大体、彼女たちはエンストするのですが、経験した人には分かる。誰でも、最初はエンストするのです。ある動画では、立ちゴケし、坂道発進のできなかった女性が、研修が終わってカメラマンの元へ帰って来ると、泣き出してしまった。泣かなくても良さそうなものですが、しかし、彼女はそれだけ一生懸命やっていたということだと思います。一生懸命やっているのに、できない。何度もバイクを倒してしまった。坂道発進ではエンストしてしまう。そんな自分が不甲斐なく、涙がこぼれた。

 

それにしても、人は何故、そんなに苦労をしてまで、バイクに乗ろうとするのでしょうか。バイクに乗るって、大変なことなんです。免許を取るのもそうですが、もちろん、それだけではありません。バイクを買うには、相当なお金が掛かる。維持費だって、馬鹿にはならない。乗れば乗ったで、危険と隣り合わせです。冬は寒いし、雨の日もある。それでも、バイクに乗ろうとする人たちというのは、少なからずいる。

 

彼ら、彼女たちを突き動かしているもの。それは、心の中のイメージだと思うのです。ある理想的なイメージがある。それは、人によって違います。ある女子高生は、お父さんと一緒に走っているところをイメージしているかも知れません。ある青年は、時速300キロでサーキットを疾走することを夢見ている。テントを積んでのツーリングを夢見ているオジサンたちだっています。彼らが持っているイメージというのは、このように千差万別だと思うのです。だから、そのイメージの数だけ、バイクのタイプも無数にある。しかし、バイクに乗ろうとしている人たち、また、既にバイクに乗っている人たちの全員が、心の中にあるイメージを持っている。そして、この心的イメージの力というのは、相当に強いんだと思うのです。何しろ、何の義務もないのに、泣いてまで人を教習所に通わせる力を持っているのですから。

 

まず心の中に、ある理想的なイメージが生まれる。これは、身近にいる人の影響だったり、ちょっとした経験だったりする訳です。このイメージが心の中で、育まれていく。すると、ある時、記号としてのバイクが眼前に現れる。そして、人々はその記号であるバイクと自分との関係を考える。自分に乗りこなせるだろうか。購入代金を支払えるだろうか。そして、衝動が現実的な制約にまさった場合、人は行動に移す。

 

この心的なイメージは、言葉になる以前の、ある心の状態だと思います。「何でバイクに乗ろうと思ったの?」 よく尋ねられる質問です。しかし、これは言葉以前の問題なので、人によっては、うまく答えられない場合がある。しかし、答えられなかったからと言って、その人が理想的なイメージを持っていない訳ではない。

 

記号原理に照らして言えば、この心的イメージは、記号が指し示すもの、すなわち「対象」という概念に含まれます。

 

対象・・・心的イメージ
記号・・・バイク
意味・・・衝動の強さと現実的な制約
行動・・・バイクに乗る。(または乗らない)

 

しかし、このことはバイクに限ったことではないように思います。例えば、旅行。あるイメージがあって、そのイメージに合致するような場所を、人は探し求めて旅に出る。食べ物もそうですね。ある理想的なイメージを追い求めて、人は蕎麦打ちに没頭したりする。

 

誤解を恐れずに言ってしまいますと、私は、キリスト教の構造というのも、実はこの原理によって、説明できるのではないかと思っています。まず、心的なイメージがある。これが、神の概念であり、天地創造の物語としての旧約聖書ではないか。そして、人々に認知され得る記号としてのイエス・キリストが誕生する。キリストは、その人生や発言、そして何よりも十字架という記号によって、人々に認知されてきた。そして人々は、心的なイメージとしての神と、自分たちとの関係をキリストの発言や人生を通じて考えた。それが新約聖書だと思うのです。そして、礼拝や懺悔などの宗教的行動につながる。

 

対象・・・旧約聖書
記号・・・キリスト
意味・・・新約聖書
行動・・・信仰

 

だから、聖書は新旧の2つあるのだと思うのです。

 

結局、今回もまた記号原理の話になってしまいました。しかし、この原理は、私たちの人生そのものを説明しているような気がするのです。人々が、経済的な理由やエゴイズムによらず、自発的に行動する場合、その背景には心的なイメージがある。そこから出発して、その理想的なイメージを現実化しようと試みる。しかし、成功する場合というのは、ほとんどない。99%、そのイメージを現実のものとして体験できることはない。仮に現実化できたとしても、記号鮮度は落ちて行き、人々は別のイメージを持つようになったりする。大好きだった人と恋人同士になれたとしても、やがて恋は冷めたりする。宝くじに当たった人が、意外と不幸だったりする。それでも、心的なイメージの現実化を目指す。それが人生だとするならば、より多くの心的イメージを持って、チャレンジし、意味を考え、行動した方が良い。記号原理は、私たちにそう教えてくれているような気がします。

 

(参考文献)
文献1: 言葉と物/ミシェル・フーコー/新潮社/1974