文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

Damselさんからの詩的なコメントについて

思い起こせば、私がこのブログを始めたのは、2016年の7月でした。間もなくDamselさんからコメントをいただき、Damselさんが運営されているブログに私のブログのリンクを貼っていただけることになったのです。以来、今日に至るまで、Damselさんのブログをご覧になり、そこからリンクを経て私のブログへ訪れてくださる方が多くいらっしゃいます。Damselさんには、感謝の言葉もありません。

 

このブログで最初に扱ったのは、歴史主義的(時間の流れに従って見る)文化人類学的な考察だった訳です。しかし、そのような見方をしますと、文化の終着点は宗教であるという結論になってしまう。これは当初私が予想していなかったもので、大変困ってしまった訳です。そこで、「天国も地獄もない」と歌うImagineを思い出し、ジョン・レノンに関する原稿をシリーズで掲載し始めたのでした。するとDamselさんからコメントを寄せていただき、聞けばDamselさんもジョンを敬愛しており、しかもジョンが射殺された現場であるニューヨークのダコタ・ハウスまで行かれたとのこと。これには、びっくりしました。以来、どこか私に似ている所があるような気もして、興味深くDamselさんのブログを拝見してまいりました。

 

ブログを拝見する限り、Damselさんという方は、キリスト教に造詣が深く、ブライアン・ジョーンズと、エスプレッソと、Fujifilm X 100Fというカメラをこよなく愛している。

 

ちなみに、ブライアン・ジョーンズとは、ローリング・ストーンズの初代リーダーで、ストーンズはブライアンが作ったバンドだったのです。ブライアンとミックとキースの3人は、汚い安アパートに同棲し、3年やってダメだったら諦めようと話していたそうです。ブライアンは楽器の才能に恵まれ、ギターの他にもシタールやハープ(ハモニカ)を演奏します。ちょっと曲名は忘れてしまいましたが、ブライアンのブルースハープは、黒人の大御所にも引けを取りません。と言うか、私としては、世界一のハーピストだと思っております。また、最近になって、ストーンズのルビー・チューズデイという曲でブライアンがリコーダーを吹いている姿を見たのですが、これも衝撃でした。彼は本当に、楽器の才能に恵まれていた。しかし、ストーンズはその後、ミックとキースが曲を書き始める。そして、バンドの主導権も徐々に彼らに移っていく訳です。そんな折、決定的な事件がモロッコで起こるんです。モロッコにはブライアンと彼の恋人だったアニタ・パレンバーグとキースの3人で行ったのです。しかし、そこでアニタがブライアンを裏切る。彼女はキースとできてしまったのです。そして、アニタとキースはブライアン一人をモロッコに残し、帰国してしまう。

 

ありあまる音楽的な才能をもてあましていたこともあって、ブライアンはドラッグに溺れていきます。ストーンズの映画、ロックンロール・サーカスの頃には、一応ギターを持って立ってはいますが、ほとんど演奏できないような状態だったようです。そして、なんとかストーンズを前進させるべきだと考えたミックとキースは、ブライアンをストーンズから除名しました。その直後、ブライアンは非業の死を遂げる。自宅のプールに浮かんでいたのです。ちなみに、ブライアンの自宅の過去の所有者は「熊のプーさん」の原作者だったそうです。

 

ちょっと話が脱線してしまいました。まだ、ご覧になったことのない方は、是非、Damselさんのブログを訪れてみてください。アドレスは、次の通りです。

 

1023.blog.so-net.ne.jp

 

さて、私の昨日の記事にDamselさんからとても詩的なコメントをいただきました。私なりにお返事のようなものを書いてみたいと思います。

 

まず、前段の記載については、多分、私の考え方と同じだと思うのです。世界はただ「ある」だけで、そこに意味はない。世界にも寿命があって、世界はやがて消え去る。まず、太陽が燃え尽き、その後も宇宙は膨張し続けて密度が限りなく希薄となり、凍りつき、消える。人類が生まれた理由も、人類に「課せられた最終目的」もない。私もそう思っております。

 

かつては聖書が説明していた事柄も、ダーウィンが「種の起源」を書き上げ、ニーチェが「神は死んだ」と宣言し、合理的には信じられない時代になった。

 

一言で言えば、ニヒリズムということではないでしょうか。多分、Damselさんも私も、ニヒリストということになると思います。では、現代のニヒリストは、どの道に進むべきなのかと言うと、いくつかの選択肢が示されているように思うのです。まず、レヴィ=ストロース。かれは野生の、と言いますか未開の精神に戻れ、と主張しているようです。次に、科学的な事柄は理解した上で、それでもキリスト教などの宗教に帰依すべきだという考え方。しかし、時計の針は戻せないというのが私の立場です。

 

さて、人類にも、私たち個人にも、存在理由も目的もない。そのことを前提として、どう生きていくかということが問題だと思うのですが、私の記号原理という考え方におきましては、もともとないものではあるけれども、意味を発見せよ、意味を創出せよ、ということになります。大半の人たちは、人生において宝くじにも当たらないし、オリンピックの金メダルにも縁がない。ノーベル賞を受賞することもない。だから、大した意味など、発見できない。それでもいい。

 

次に、私の心的領域論ですが、これは人の心の領域を1次性~3次性に分類するものですが、これはどうやら人間の心の発展段階を示唆している。最近、そう思うようになりました。誰もが1次性から出発する。そして、2次性を経て、3次性に到達する。私だって、若い頃はロック・ギタリストだった訳で、概念や論理とは無縁の生活をしていました。1次性、すなわち身体性の世界に生きていた訳です。やがて、経験を経て”物”に出会った。そして、概念と論理の世界、すなわち3次性の領域に突入する。身体の衰えと同時に1次性の領域は、いつの間にか衰退していた。そんな気がします。そこで、2次性に回帰すべきではないか、と今は考えています。順序を並べてみましょう。

 

1次性 → 2次性 → 3次性 → 2次性(回帰)

 

何か、私の人生は、上の図に示したような経路を辿っているような気がするのです。そこにどんな意味があるのかと問われると、私も困るのですが。

 

特に3次性というのは、概念と論理の世界ですから、その思考対象は自分自身よりも社会的な事項、政治的な事項に向きがちです。しかし、世の中というのは、矛盾と馬鹿馬鹿しさに充ちている。もうそんなことには疲れた。そう思った人が、換言しますとそれなりに心身ともに疲れた人が、帰っていく領域。それが、物と経験の世界ではないかと。

 

私は時折、Damselさんを羨ましく思っています。ご自宅にエスプレッソを精製する機械をお持ちですよね。そして、フィルターなどを交換され、その機械をピカピカに磨き上げる。そういう”物”と向き合う時間というのは、素晴らしいのではないでしょうか。やがて作業を終え、抽出したエスプレッソを飲む。コーヒーカップの底に、きっと人生の意味が潜んでいる。

 

いつだか、Damselさんのブログでは、聖母マリア様の像の写真が掲載されていました。私は、これも2次性だと思います。像がマリア様を象徴している。こういう像を大切にするというのも、素晴らしいことだと思います。

 

とても回答にはなっていませんね。すいません。感想まで。いつも有難うございます!