文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 190 ”共感力”という考え方

 

相変わらず、政治や行政の世界では理不尽な出来事が続いています。私などは、腹が立って仕方がありません。一つ言えるのは、財務省では“内部統制システム”が機能していない、ということです。また、組織のトップに立っている人間のレベルがあまりに低い。あんな人たちの給与や退職金のために、私たちの税金が使われるのかと思うと、がっかりしてしまいます。現代日本の組織では、やはり、上司におべっかを使う人間が出世する仕組みになっている。誰か頭のいい人に、「人格判断基準」のようなものを作ってもらいたいものです。上司のご機嫌を取る能力や記憶力だけではなく、その人の人格を測定する方法なり基準を作る。そして、人格の優れていない人は出世できない。そういう仕組みはできないものでしょうか。

 

さて、私の血圧が上がる前に、本論に入りましょう。

 

記号学のパースは、言語などの記号を理解するためには、それなりの素養が必要だと考えた。そこで、“解釈思想”という概念を提唱しました。英語では、the interpretative thought of a sign という表現です。翻訳の難しさもありますが、この言葉にはちょっと違和感があります。それは、むしろ素養や能力に関わるものであって、思想ではないと。何かいい言葉はないかと考えていたのですが、“共感力”と言ってみてはどうでしょうか。記号を理解するための素養や能力と同じように、文化を理解し、そこに共感を覚え、参画していく。そういう力が文化を支えている。その力を“共感力”と呼びたい。(私の造語です。)

 

例えば、私は今まで、石に興味を持ったことがなかった。そのため、日常的なフィールドに存在する様々な石を見過ごしていた。危うく、石と石に関する文化の素晴らしさに気付くことなく、一生を終えるところだったのです。すると、この“共感力”というのは、私たちの人生に多大な影響を及ぼしているに違いない。

 

実は、私には同じような経験がもう一つあります。少し前にライオンに関するシリーズ原稿を掲載させていただきましたが、当時、私はYouTubeで様々な動物に関する動画を見ておりました。すると、もののはずみで“猫”に関する動画に行き当たったのです。私は、今まで猫に興味を持ったことはありませんでした。猫がどんなことを考えながら暮らしているのか、そんなことを考えたことはなかったのです。しかし、YouTubeの動画を見ておりますと、飼い主たちが、想像して、猫の気持ちを代弁するようなコメントを書いておられる。「お腹がすいた」とか、「遊んで欲しい」というようなたわいもないものです。しかし、それらのコメントには、飼い主さんたちの愛情が表現されているんですね。なるほど、猫の飼い主というのは、こういう気持ちで、猫に接しているのか。そういうことが分かってくる。例えば、捨てられた子猫を拾ってきて、育てようとする。そういう人たちの優しさが、伝わって来るんです。私は今まで、自ら率先して猫に触ってみたことなど、一度もありませんでした。しかし、先日、あるコンビニの前に野良猫がいた。子供たちが、野良猫を撫でている。遠目にそんな光景を見ていたのです。子供たちが立ち去ったあと、私は恐る恐る猫に近づき、その背中を撫でてみたのでした。野良猫は、左程、私に興味を持った風ではありませんでしたが、嫌がる風でもなかった。猫を撫でると、こんな感じがする。それは些細なことですが、何か、貴重な経験でもある。そんな気がしました。

 

石の例と同じで、私は身近に存在し続けて来た何かを、見ていなかった。気づかずに生きてきた。もしかすると、まだ他にもそんな“何か”が沢山あるのではないか。そんな風に思うのです。

 

では、共感力はどのように培われ、どのように発揮されるのか。石の例で、考えてみます。

 

まず、準備段階。ある文化を受け入れるための、心の準備段階というものがあるのではないか。私の場合は、3年程前に、金剛峯寺を訪ねていた。そこで、例の岩の写真を撮っていた。なんとなく、その印象が残っていた。ただ、それだけでもないような気もするのです。その後、西伊豆にある“黄金崎クリスタルパーク”という所で見た、ガラス工芸が影響しているのかも知れない。そこには、ガラス工芸に関する芸術作品が展示されているのですが、透き通ってはいないガラスの素材を立方体にしただけの作品があった。まだ、形も機能も付与されていない、ただドロドロとしたガラスの素材その物が展示されていたのです。これが何故か、私の心に響いた。それは、石に似ていないこともない。

 

第2段階として、“閃き”がある。ブログに写真をアップしながら、ああ、この岩は素晴らしい、と閃いた訳です。但し、上記の準備段階がなければ、この“閃き”は訪れなかったものと思います。

 

第3段階として、自分とのつながりを考えることになる。ガラスの場合は、ハードルが高い。私には、ガラスに関する知識がない。ましてや、ガラスを加工するとなると、高価な設備も必要となるに違いない。他方、石ころであれば、そこら辺の河原とか、海岸で拾えるのではないか。

 

第4段階としては、あとは石に関わる行動を取ることになります。石に働き掛ける。それは正に、文化に参加するということを意味している。

 

共感力というのは、特に、2次性の文化(物と自然)において、要求されるように思います。

 

但し、「この石って素晴らしいよね」と誰かに共感を求めた場合、それは“感情”という1次性のカテゴリーに陥ることになります。

 

また、「君の持っている石よりも、僕の持っている石の方がいいよ」と考えれば、それはマウンティングというエゴイズムに貶められることになります。

 

私はこの石が好きだ、という孤高の感覚を受け入れる自信と覚悟。それが、大切なんだと思います。

 

それにしても、石の他にも、世界には木がある。土もある。水もある。そして、それらと私たちは、文化を通してつながっている。やはり、まだ私が気づいていない“何か”は、この世に沢山あるに違いありません。