文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 191 懐かしい場所

いつの頃からか、近所のラーメン屋でパートをしている“おばさん”と言葉を交わすようになりました。ほとんどの場合、私は客で彼女はラーメン屋の店員として、二言三言会話を交わすのです。街ですれ違った折には、挨拶だけ。

 

1か月程前のことですが、お店のカウンターに座った私は、「暖かくなったね」と言ってみました。「そうですね、桜も咲いたし」とおばさん。ふと、私は窓の外に目を向けたのでした。ラーメン屋の外には、道の反対側に、桜の老木があるはずだった。しかし、見当たらない。私の目が泳いでいるのを察したおばさんが言いました。

 

「あの桜、なくなっちゃったのよ。駐車場の拡張工事で、切られちゃった。私の心の支えだったのに・・・」

 

一瞬、おばさんが涙ぐんだように見えました。

 

それだけのことです。こういう話というのは、ちょっと若い人には難しいかも知れません。

 

毎年、春になれば桜が咲きます。テレビでは、桜前線の話題が取り上げられます。四国では咲いたが、大阪はまだだとか。東京には、確か明治神宮だったと思うのですが、標準木というのがある。そこで、3輪位咲くと開花宣言が出される。週末には、お花見で盛り上がり、そんなことがテレビの話題になったりする。しかし、例えば私のような者は、多分、そのおばさんも同じではないかと思うのですが、お花見に行ったりはしない。明治神宮にも行かない。ただ、毎日のように通り過ぎる路傍の桜の木を見ては、蕾が膨らんで来たとか、三分咲き位になったとか、そんなことを楽しみにするのです。そして満開になると、ああ、今年も桜が咲いて良かった。無事、1年を暮らすことができた。大していいこともない年だったし、相変わらず腰痛は治らない。それでも、桜を見ることができた。桜の木よ、綺麗な花を見せてくれて有難う。来年も宜しくね。そんなことを思ったりするのです。

 

そのおばさんや私にとっては、道を挟んでラーメン屋の反対側に立っていた桜の老木が、言わば標準木のようなものだった。ある一本の木と、ある人間との間に、特別な関係が醸成されていた。だから、その木が“心の支え”になったりすることもある。

 

例えば、高野山金剛峯寺には、あの白い岩がある。埼玉に住んでいる私からすれば、それはとても遠い場所です。多分、私が再び金剛峯寺を訪れることはないでしょう。しかし、そこにはあの白い岩がある。それだけで、私は、その場所とのつながりを感じることができる。もし、再び訪れることがあれば、とても懐かしい感じがするのではないでしょうか。

 

世界は広い。日本だって広い。だから、若いうちは、あちこちに出掛けてみた方がいい。しかし、ある程度の年令になれば、大体のことは分かって来る。どこへ行けばどんな風景が広がっているとか、何を食べればどんな味がするとか、そういうことが分かってくる。そうしてみると、頻繁に旅行に出掛ける必要もなくなってくる。ただ、数か所、“懐かしい場所”を作っておくと良いのではないか。あそこに行けば、あの木があるとか、あの岩があるとか、そんな些細なことでもいいと思うのです。そして、その木や岩に会いに行く。懐かしい感じがする。それらの木や岩が“象徴”する“場所”に行ってみる。そうすることによって、私たちは自然や大地と繋がっていけるのではないでしょうか。