文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

初夏の昼間のひとり言

パース先生によれば、アブダクションにはいくつかの仮説を思いつくままに提起する“示唆的な段階”と、それらの仮説の中からもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ“熟慮的な推論の段階”がある。このブログは明らかに“示唆的な段階”にある。しかし、そろそろジグソーパズルのピースは揃ったのではないか。

 

ところで、私が1次性~3次性と呼んできた心の領域だが、この呼び名はパース先生が提唱した現象学からのパクリである。それに数字で呼ぶよりも、直接的な言葉で表現した方が分かり易いのではないか。また、この「性」というのが、今一つしっくりこない。アルカリ性とか、芸術性などという言葉は一般的だが、何か、今ある状態を表現しているような印象がある。一方、私が提唱している概念には、明らかに歴史的な系譜がある。

 

まず、動物を真似る所から始まり、歌、踊り、ファッションを経て、祭祀に至る流れがあって、これが1次性だった。その本質は、身体にあるのではないか。すると、身体性、身体的などの言葉が思い浮かぶ。しかし、あるカテゴリーを示すために、ここは名詞形であって欲しい。では、“身体系”と言ってみてはどうだろう。

 

(このように、使用する言葉を変更するのは、読者の方々に対し、本当に申し訳ないと思っています。一度定義した言葉は、継続して使用する。そして、言葉の定義は変更しない。これが本来あるべきルールですが、どうも次々とアイディアが沸いて来てしまう。まさに、このブログは試行錯誤の段階にあったことの証左だと思います。)

 

次に、動物を食べる、すなわち狩りをするために道具を作る所から始まって、物に機能を持たせる、願いを込める、象徴させるという風に発展してきた2次性はどうか。自然系というのはどうだろう。しかし、例えば広島にある原爆ドームは人口物だが、原爆の悲惨さを象徴している。自然ではない。やはり、ここは物質と言った方が良い。では、“物質系”と呼ぶことにしよう。

 

更に、動物を敬うと言うか、動物に想像力を掻き立てられる所から始まる“3次性”はどうだろう。本質は、“想像力”にある。そこから思考に至るのだ。では、“想像系”としよう。

 

心的領域論と称する全体概念の中で、私は1次性~3次性という言葉を用いて来た訳だが、そもそも、心的な領域と文化の領域は、相当部分において重複するのではないか。では、例えば“身体系”という言葉は、「身体系の文化」とか、「身体系のメンタリティ」という風に、使えることにしたらどうだろう。

 

人間の認知・行動システムとして、“記号原理”ということも考えた。では、記号に象徴される文化というのはあるだろうか? やはり、それは“ある”と言わざるを得ない。例えば、私が毎日楽しんでいる将棋。将棋の駒というのは記号であって、そこに他の要素はない。そう考えると、他にもチェス、トランプ、花札、カルタ、麻雀などの例を挙げることができる。更に、大きな所ではトーテミズムがあって、日本にも暖簾、屋号などの風習がある。これらを無視することはできない。すると、“記号系”という言葉も必要になる。しかし、記号系のメンタリティというのは、存在しないように思う。記号原理は認知、行動を司るシステムであって、人の心を形成するものではない。

 

最後に、エゴイズムの問題がある。このブログの最初の方で、私は「敵と味方を識別して集団で戦うシステム」ということを提唱させていただいた。これは、最近述べた「帰属集団のエゴ」と同じではないか。帰属集団のエゴの典型は、戦争である。私は、戦争を文化とは呼びたくない。では、戦争やファシズム、大量虐殺などの現象をどう位置付けるか。これらは文化から除外し、あくまでもエゴイズムとして、文化への対立概念として位置付けるか。それとも「文化の過ち」と解釈すべきか。結論はさておき、一応、“競争系”としてみてはどうだろう。集団で競争する。個人で競争する(序列闘争)。そして、遺伝子が競争する。

 

記載順は、どうあるべきだろうか。最もベーシックなのは、記号系で、次にエゴイズムを表わす競争系が来るべきではないか。ここまでは、動物も持っている領域だ。そして、身体系、物質系、想像系と続く。この順序だと、座りがいい。

 

では、比較的シンプルな所で、上記のカテゴリーによって、子供の遊びを分類してみよう。

 

記号系・・・将棋、トランプ、カルタ

競争系・・・かけっこ

身体系・・・歌、踊り、ブランコ

物質系・・・砂場、粘土、プラモデル

想像系・・・ままごと、童話

 

やはり、うまくいく。ジグソーパズルのピースは揃った。このブログは、“示唆的な段階”を脱し、“熟慮的な推論の段階”に移行すべきなのだ。すなわち、体系的に人間と人間の営み、人間の世界、すなわち文化について記述すべき時を迎えたに違いない。タイトルは、どうしよう。文化論とするか。いや、それでは漠然とし過ぎている。名は体を表わすべきだ。では、“文化領域論”というのはどうだろう。うん、悪くない。

 

・・・ということで、このブログは、今後、体系的な思想としての“文化領域論”の完成を目指すことに致します。なお、上記5つのキーワードは確定とし、もう変更はしません。