文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 203 第5章: 身体系(その1)

 

1.“身体系”文化の起源

 

身体系の文化は、動物を真似る所から始まった。この点は、多分、間違いないと思います。今回調べてみて、祇園だとか浅草には鳥のサギの格好をして踊るという風習のあることが分かりました。動物の姿を真似て着飾る。動物の動きを真似て踊る。

 

但し、歌の起源については諸説あるようで、説得力のある仮説を提示することはできません。歌の起源を考える場合、それよりも前にあったであろう“言葉”について検討する必要があると思うのです。しかし未だに、言葉の起源を説明できる定説というのは、ないようです。

 

小鳥のさえずりから、言語の起源を研究している学者は、「歌と踊りの起源は、性的なアピールである」と述べておられます。確かに、人間がサルだった頃まで遡れば、その意見は正しいのでしょう。しかし、長い時間をかけて育まれてきた文化という観点から見れば、事情はもう少し複雑だと思うのです。

 

ところで、音楽の3大要素というのを習った記憶があります。すなわち、旋律(メロディー)、和音、リズムの3つである。しかし、伝統的な祭りや踊りの光景をYouTubeで見ておりますと、疑問が沸いて来るのです。無文字社会の人々の踊り、リオのカーニバル、日本の伝統的な踊りなどを見ますと、そこに和音はほとんど用いられていないことが分かります。また、日本の踊りでは横笛が旋律を奏でますが、全体的に見れば、これはその場に華やかさを付与するための付属的な役割を果たしているに過ぎない。役割の大きさからすれば、圧倒的にリズムが重要なんです。

 

日本の伝統的な楽器の中で、一度に複数の音を出して、すなわち和音を表現できる楽器というのは、存在するのでしょうか? 横笛、尺八、太鼓、三味線。どれも和音を表現することはできません。

 

そもそも、和音という概念は、とても複雑なものです。まず、1オクターブ上の音と下の音を特定する。そして、その間を分割し、合う音と合わない音を識別する。例えば、ド、ミ、ソの3つの音は合う。そういうことが分かってくる。そして、ドミソという和音が誕生する。この和音という概念があるから、それを奏でることのできる楽器、すなわちピアノ、オルガン、ギターなどが開発されたのではないでしょうか。全て、西洋の楽器ですね。調べてみますと、和音を多用するクラシック音楽の起源は6世紀頃だそうです。してみると、この和音という概念の歴史も、千数百年程度しかないことになります。

 

やはり起源ということを考えますと、記号としての動物が“誘因”となり、その姿形を真似てみる。これがファッションですね。そして、人間は踊り始めた。しかし、踊るためにはリズムが必要だった。と言うよりは、むしろ踊るために必要な要素とは、リズムだけだったのではないか。

 

祭りを開催して踊る人々は、必ずリズムと打楽器に関する文化を持っている。私は長年、リズムに関してはアフリカとラテンにはかなわないと思ってきました。しかし、日本にも“和太鼓”というりっぱな文化がある。そして、和太鼓の奏でる強烈なリズムが、日本の祭りを根底から支えてきたに違いないと思うのです。

 

2.競わない集団

 

祭りという伝統文化は、日本の各地にあって、その種類もいくつかあるようです。戦う祭り、というのもある。一般に、男祭りとか、喧嘩祭りと呼ばれるものですね。喧嘩神輿というものまである。これは、あたかもカブトムシのように神輿に角を生やせて、他の神輿と戦うんです。相手の神輿の角を折った方が勝ち、ということになります。こういう祭りでは、興奮した男たちが、思い余って喧嘩を始めたりする。私流の言い方をしますと、これらの祭りは“競争系”ということになります。

 

他方、神輿ではなく、踊りを中心とした祭りも多数存在します。有名な所では、阿波踊り、花笠踊り、さんさ踊りなどがありますが、その流派まで含めますと、もう無数にそういう集団がある。これにはちょっと驚きました。そして、踊りを中心とした集団というのは、戦わない、競わない、序列を決めない。これはもう、“競争系”のメンタリティを真っ向から否定しているように見えます。YouTubeさんさ踊りの光景を見ていましたら、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けた女性が出て来ました。やはり、この世界にも競争があるのかと思って、ちょっとがっかりしたのですが、よく見ると踊っている女性は皆、「ミスさんさ踊り」というタスキを掛けている。その後ろに数十人のタイコ隊がいるのですが、こちらも全員がタイコの腹に「ミス太鼓」と書かれた布を巻き付けている。何か「皆が一等賞」という感じがして、嬉しくなりました。それでいいと思うんです。

 

阿波踊りには、踊り方の基本形があって、そこに創意工夫を凝らした変形バージョンもあるようです。どの形で踊るかというのは、グループ毎に決めているようです。このグループも沢山あって、例えば「阿呆連」とか「〇〇連」という名称が付されているようです。ちなみに「阿呆連」という名前は、「踊る阿呆に見る阿呆。同じ阿保なら、踊らにゃソンソン」から来ているのでしょう。

 

阿波踊りを見ておりますと面白いのですが、踊り方はそれ程、難しくないように思えます。私でも1時間も習えば、そこそこ踊れるのではないか。そこが、この身体系文化の魅力なんだと思います。ハードルは高くない。やる気になれば、誰でも参加できる。このタイプの集団は、開放的なんですね。実際、外国からの留学生が、踊りに参加している例もありました。

 

阿波踊りの動画を見ておりますと、〇〇連の人たちが、大通りを踊りながら行進してくる。それはもう、統率が取れていて、迫力満点です。しかし、その後ろには別のグループが続いている。通りの両脇は、見物人で溢れかえっている。私はふと、エチオピアの山岳地帯で、何の争いもなく合流して行ったゲラダヒヒのことを思い出しました。○○連がハードだとすると、そこにいた全ての人々が、マルチ・ハードということになります。そして、誰も戦わない。競わない。序列を付けない。

 

集団的であるという側面を取り上げますと、“競争系”も“身体系”も同じです。しかし、その内実は真っ向から対立している。ここら辺が、文化の懐の深さではないでしょうか。

 

この章 続く。