文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 204 第5章: 身体系(その2)

 

3.打楽器とリズム

 

前回の原稿を書いた頃から、すっかり“和太鼓”に魅せられてしまいました。どうやら、和太鼓というのは、大木の幹をくり抜いて作るらしい。そして、牛皮を貼る。だから、金属が醸し出す硬質な音とは違って、深みのある優しい音が生まれる。その音は、一瞬で消える。だから、和太鼓の音色というのは愛おしい。

 

和太鼓という楽器は、その昔、大陸から日本に伝達されたようです。そして、日本で“和太鼓”という文化に成長し、今では日本から世界各地にその文化が伝えられている。例えば、日本の和太鼓集団が、海外で演奏する。それはコンサートホールであったり、路上だったりする訳ですが、いずれの場合でも海外の聴衆はその迫力に魅了され、拍手喝采を惜しまない。打楽器の音色やそれらが叩き出すリズムの魅力というのは、いとも簡単に国境を超える。

 

YouTubeに、海外の少女が和太鼓について解説している動画がありました。英語なんですが、専門用語のDon Dokoとは何かとか、そういうことを一生懸命説明している。打った後には、腕を真っ直ぐ上に上げろとか、どうやら彼女は和太鼓の流儀にも精通しているらしい。これはもう、日本発の世界的な文化に昇華している。そう思うと、ちょっと嬉しくなりました。

 

和太鼓の特徴の一つは、複数の人間が協力して、同じリズムを作り上げる点にあると思います。例えば、ジャズのドラマーだったら、1人でアドリブ演奏を繰り広げる。他方、和太鼓の方は、複数の人間が一糸乱れず、譜面通りの音を叩き出す。ただ、同じような打楽器集団が、アフリカにもある。複数の人間が協力して、一つのリズムを創り出している。これはちょっと、似ていると思いました。アフリカ出身のパーカッショニストと日本の和太鼓奏者が共演するという、大変興味深い動画もありました。

 

リズムって、何だろう? 哲学者や心理学者は、もっとこの大問題に取り組むべきではないのか。

 

4.肉体を誇示する人々

 

ところで、“身体系”の文化やそのメンタリティについて考えておりますと、どうも肉体を誇示する人たちが沢山いるような気がしてなりません。

 

例えば、浅草の三社祭。普段は刺青を隠して暮らしている人たちが、年に1度のこの日だけはもろ肌を脱いで、刺青を誇示する。観光客がカメラを向けると、気軽に撮影に応じる。男性も女性も同じです。どうやら、彼らは刺青を入れた自分の体を見てもらいたいと思っているようです。

 

リオのカーニバルは有名ですが、最近は日本国内でもサンバ・カーニバルが盛んに開催されているようです。これらカーニバルにおける女性の出で立ちというのは、ちょっと理解を超える位に露出している。

 

神輿を担ぐ男性や和太鼓奏者などの中にも、フンドシ一丁になる人は少なくありません。彼らも、肉体を誇示しているように見えます。

 

AKB48はミニスカートだし、ポップシンガーのマドンナやレディ・ガガなども、ステージで服を脱ぎたがる。

 

もし、自分の肉体にコンプレックスを持っていたとしたら、彼らは人前で脱いだりしないのではないか。むしろ、彼らは自らの肉体を愛しているから、それを誇示するのではないでしょうか。

 

5.人は何故踊るのか

 

人が踊るのには、いくつかの理由があると思います。戦さの前に士気を高める、という場合もあります。これは“競争系”の踊りですね。また、神話などに従って、神様に楽しんでもらう、願いを込めて踊る、という場合もあるでしょう。これは、“想像系”の踊りです。しかし、これらの場合を含め、人間には踊りたいという根源的な願望があるのではないか。

 

確かに、性的な意味合いもあるでしょう。実際、ミュージシャンやダンサー程、異性にモテる商売はない。クジャクの例を出すまでもなく、動物が歌ったり、踊ったり、美しく進化するのは、異性を惹きつけるためです。しかし、人間の場合、理由は他にもあるのではないか。例えば、日本にはヒョットコのお面を付けて踊るという文化がありますが、この場合、性的な意味合いというのは想定できません。

 

まず、自分の肉体に対する愛着というものがある。これが出発点ではないでしょうか。刺青を入れたり、着飾ったり、まず自分の肉体を記号化し、そして、外界との関係を構築しようと努める。そして、人間には動物が持っていない打楽器とリズムというものがある。これは、時間と空間を象徴しているのではないか。まず、打楽器が奏でる瞬間的な音というのは、過去と未来の境界点である“現在”を象徴している。そして、音というのは無限に伝わるものではない。ある範囲内の場所においてしか、聞こえない。だから、打楽器の奏でるリズムに合わせて踊るということは、人々が肉体を通して、時間と空間を共有するための手段だと言えるのではないか。言うまでもなく、そこから“共感”が生まれる。私は誰かを見ている。そして、誰かが私を見ている。同じ時間と空間の中に人々がいる。だから、楽しい。

 

これが、“身体系”の文化とメンタリティの本質だと思います。そもそも、共感を得ようとするのが“身体系”なので、ミュージシャンやダンサーには、平和主義者が多い。

 

私は、“競争系”について、辛口の批判を述べました。対して、“身体系”については、肯定的な見方をしています。しかし、“身体系”の文化やメンタリティを手放しで肯定している訳ではありません。何故なら、リズムに陶酔すること、歌や踊りに興じるということは、その間、思考を停止することになるからです。思考を停止するから共感が生まれるのだ、という見方もできますし、実際、その通りだと思います。しかし、思考するのもまた、人間の本質だと思うのです。

 

この章、終わり