文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 207 第8章: 単一系の文化と複合系の文化

先日、YouTubeでアフリカの画像を見たのですが、これには驚きました。道端に100人位の人々が集まって、輪になっている。正面には数人の男たちが座っていて、ジャンベなどの打楽器を打ち鳴らしている。輪の中心は直径10メートル位の空白地帯になっていて、そこに順番で人々が出て来て、ひたすら踊るんです。全身を使って、それは激しく踊りまくる。疲れてしまうということもあるのだろうと思いますが、1~2分もすると踊り手は、観衆の中に引っ込む。それと同時に別の人が登場し、踊り始める。踊りの型というのは、あまり決まってないようです。中には、バク転や前方宙返りだけをして、観衆の中に消えて行く人もいる。男も女も踊っていて、中には白人もいました。子供の踊り手もいる。そして、そんなことが、30分位は延々と続くんです。音楽と言っても、打楽器だけなんです。歌はない。和音もない。ひたすら激しいリズムだけがあって、そして、人々が踊る。これはどうやら、音楽の起源がそのまま現代まで継承されている。そう思いました。そして、こういう文化というのは、純粋に身体系だと思うのです。他の要素は見受けられない。

 

記号系であれば、花火、イラスト、レタリングなど、記号系単独で成立している文化があります。想像系であれば、小説や法律というものがある。こちらは、文字だけです。単一系で物質系の文化ということであれば、日本庭園だとか水石というものがある。食文化にしても、原則として、純粋な物質系だと思います。

 

では、競争系はどうか。ここで私は、少し困ってしまったのです。先の原稿(No. 201~No. 202)で、競争系については詳細に検討したつもりなのですが、では、競争系の文化の中で、純粋にそれだけで成立しているものはあるのか、ということです。競争系に基づく人間の行動やメンタリティは、確実に存在している。その典型は戦争です。しかし、戦争を文化と呼ぶ訳にはいかない。序列を誇示するマウンティングや、イジメという問題もある。しかし、これらも文化とは呼べない。してみると、競争系の文化とは、スポーツということになる。運動会、ワールドカップ、オリンピック、大相撲など。これらの催しを文化と呼んで差し障りはないと思います。敵と味方を識別して、集団で戦う。若しくは、同一集団の中で序列や順位を決める。しかし、これらの文化は、単独では成立し得ないのではないでしょうか。例えば、サッカーであれば、スタジアムの中で行う。スタジアムというのは、物質系の中の“空間表現”に該当すると思うのです。大相撲には土俵があり、その起源は神事だった。こちらも競争系ではあるものの、単一系とは言えない。

 

やはり、文化やメンタリティの領域ということを考えますと、“競争系”は異端であると言わざるを得ません。他の領域には、それだけで成立する単一系の文化が存在するのに対し、“競争系”は、単独では成立し得ない。詳細は次章で検討致しますが、文化は時間と空間に密接に関係している。そして、時間と空間については、身体系、想像系、物質系の3領域によって、カバーされている。だから、競争系というのは、元来、文化として存在しなくても良い領域なのではないか。若しくは、競争系とは文化が抱える自己矛盾であるとも言えそうです。

 

次に、複合系の文化ですが、こちらは枚挙にいとまがありません。例えば、さんさ踊りには、次のような説話があります。

 

「昔、鬼が人里に降りて来て、悪さをしていた。困った村人は、神様に鬼の退治をお願いした。神様は鬼を懲らしめた。そして、もう2度と悪さをしないように誓わせ、その証として、岩に手形を押させた。鬼は村を去った。喜んだ村人たちは、その岩を取り囲み、神様に楽しんでもらうため、踊りを披露した。これがさんさ踊りの起源である。そしてこの地は、以後、岩に手形、すなわち岩手と名付けられた。」

 

物語的思考ですが、なんとなく、そうだったのかと腑に落ちてしまいます。これが想像系で、さんさ踊り自体は、身体系ということになります。

 

毎週末、国会議事堂の近くで、反原発の抗議行動が行われています。参加者の多くは、プラカードを持っています。これが、記号系です。野党の議員や学者が、何故、原発に反対するのか、スピーチを行います。これが想像系(論理的思考)です。リーダーの掛け声に合わせて、「原発反対!」「再稼働反対!」などとシュプレヒコール繰り返します。これが身体系です。そして、原発を推進する政府の象徴としての国会議事堂がある。これが物質系です。

 

やはり、単一系の文化よりも複合系の文化の方が、ダイナミズムがある。単純なロックンロール(身体系)よりも、そこに反ベトナム戦争などのメッセージ(想像系)が込められていた方が、より心に響く。

 

身近なところで、ファッションという文化もあります。人は、どういう服を着るのか。これにも何種類かの理由がありそうです。まず、機能を求める。暖かいとか、丈夫だという理由で、人は服を選ぶ。これは物質系(機能)です。次に、飲食店の従業員が同じユニフォームを着る、という例もあります。これは、一般の顧客と区別するためですね。すなわち、記号系ということになります。更に、例えばさんさ踊りの踊り手が皆、同じ着物を着ている。これは、共感を求める身体系だと思います。

 

そう言えば、ある地方都市の「成人式」の様子をYouTubeで見たことがあります。その派手なと言いますか、ケバケバしい服装には驚きました。茶髪どころか、髪をピンクや緑色に染めている若者までいる。彼らは、自らの身体を記号化しているですね。すなわち、友人たちに自分を認知してもらいたいと思っている。友達と共感したいと思っている。すなわち、それだけ彼らにとっては、友達が大事だということなんですね。かわいいもんです。

 

この章 終わり