文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 208 第9章: 心的領域論(その1)

 

1.概略

 

経験がメンタリティを生み、メンタリティが文化を誕生させる。すると、メンタリティというものは目に見えないけれども、人間の行動や文化的遺産などを観察することによって、その特質を推し測ることが可能である。そして、文化に5つの領域があるのだから、メンタリティにもそれらに対応した領域があるに違いない。これが、これから述べる心的領域論の前提です。

 

脳科学という学問はあります。そして、脳のどの箇所が、どういう働きをしているのか、それはある程度分かってきたようです。怪我などによって脳の一部が損傷すると、負傷者の行動に支障が出るからです。例えば、言語機能が低下する。すると、脳の損傷を受けた箇所が言語機能を司っていたことが分かる。しかし脳の仕組みや働きについて、本質的には、まだ何も分かっていない。

 

このブログでも人口知能の問題を取り上げたことがあります。技術者たちは、人口知能がいずれ人間の能力を超える。そういう臨界点、すなわちシンギュラリティが起こると言っています。一時期、この推測に私も愕然としたものです。しかし、例えば計算機能であれば、電卓だって、既に私の能力をはるかに超えている。このように一部の機能面においては、既にコンピューターが人間の能力を超えてはいるものの、人間のメンタリティの多様性、複雑さ、曖昧さについて、人口知能が再現できるとは思えません。人間には個性があり、喜怒哀楽がある。そして、人間のメンタリティは、新たな文化を生み出すというとてつもない能力を持っている。そういうメンタリティをコンピューターが再現できるとは、とても思えないのです。

 

さて、概略を説明させていただくには、前々回の原稿に添付した図を用いるのが良いと思います。同じものを再度、掲載させていただきます。

 

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まず、記号系は全ての領域に関連しているので、中央に記載しました。そして、身体系との記載の下に「現在」と書いてあります。これは、リズムについて検討した際、それは“現在”という時間を共有するための手段であるという発見があった。同じリズムに合わせて体を動かす、すなわち踊ることによって、共感が生まれる。そこに身体系の本質がある。そのように考えますと、身体系というのはどこまで行っても、「現在」に関わっていることが分かる。例えば、人は“会話”する。それを楽しむ人たちがいる。これも身体系だと思います。すなわち、口から発した言葉というのは、あくまでも瞬間のものであって、すぐに消えてしまう。その瞬間を共有している者だけが、それを理解できる。

 

次に想像系という記載の下に「過去」と書いてあります。そもそも、人間とは何を想像するのか、という問題がある。それは、少なくとも「現在」の出来事ではない。多くの場合、人は「過去」の出来事を想像している。私たちの祖先は、何者だったのか。例えば、ジョン・レノンは何を考えていたのか。ゴッホは何故、自殺したのか。全て、「過去」のことです。そして、この想像系の文化なりメンタリティというものは、文字によって記録されている。若しくは、絵画によって表現されている。稀に、「未来」を想像する人たちもいる。SF小説とか、近未来小説というものがある。これらも想像系という領域に含めて良いと思います。

 

物質系という記載の下には「空間」と書いてあります。物質系の文化については、機能、呪術、空間表現、象徴の4種類を挙げました。確かに、4種類ある。いや、もっとあるかも知れません。ただ、ここで私が注目したのは、「空間表現」なんです。全ての物質は、空間の中に存在していて、それは直接的には時間から切り離されている。ところで、人はどういう時に、空間を感じるでしょうか。それは、ピラミッドのような大きな物を見た時。もう一つは、建物の中に入った時ではないでしょうか。例えば、ヨーロッパの寺院や高級ホテルのロビーなど、広い空間の中に身を置いた時、人は空間を感じる。補足的に言いますと、人が大きな物を作るのは、空間を感じるためであって、小さな物、すなわちミニチュアを作るのは、「象徴」を目的としているように思います。

 

このような切り口で見た場合、人間のメンタリティは、文化を通じて、時間と空間を認識していることが分かる。

 

身体系・・・現在
想像系・・・過去(未来)
物質系・・・空間

 

記号系に上記3つの領域を加えますと、これで時間と空間を認識するという目的が達成されます。競争系は、不要である。私が、競争系を異端であると考える理由が、ここにあります。

 

記号系は除外して、図を上半分と下半分に分けて考えてみましょう。上半分、すなわち身体系と想像系は、融和的であることになります。身体系は共感を求める。想像系は、平和主義へとつながる。だから、融和的だということです。反対に、下半分の競争系は、他の集団と戦い、勝利しようとする。同じ集団の中では、序列闘争がある。これは支配的だと思います。また物質系にしても、森林を伐採し、石を切り出し、動物を殺し、食べる。こちらも支配的だと思うのです。

 

ところで、民族学者の折口信夫が面白いことを言っています。以下、引用。

 

折口は、人間の持つ比較の能力を、「類似点を直観する」ような「類化性能」と「咄嗟に差異点を感ずる」ような「別化性能」に分けている。そのうち、類化性能とは、表面的には違っているもののあいだに共通性や同質性を見出すような思考方法であり、他方で、別化性能とは、差異を基礎にして組み立てられる、A≠非Aという科学思考のベースにあるアリストテレス原理を含む思考方法のことである。折口にとって古代人の心は類化性能によって組み立てられていたのである。

 

参考文献:文化人類学放送大学教材/内堀基光 奥野克己/2014

 

この考え方を当てはめてみますと、私が融和的だとしている身体系と想像系のメンタリティは、類似点を見出そうとする類化性能であって、反対に競争系と物質系は、別化性能に基づくものと言えそうです。

 

今度は、上図を左右に分けて見てみましょう。左に記載した身体系と競争系は、集団的(依存的)ということになります。まず、身体系は他人との間に、共感を求める。歌う、踊る、着飾る、加えておしゃべりをするというのは、いずれも他人の存在を前提としています。すなわち、他人に依存している。多くの場合、他人とは人間の集団を意味している。とにかく、集まって、現在という時間を共有するんです。また、競争系のメンタリティも、まず、帰属集団ありき、ということになります。集団に帰属するから、その内部での序列という問題が出て来る。こちらも、集団に依存しています。

 

反対に、右半分を見てみましょう。想像系というのは、個人的なメンタリティだと言えます。まず、個人の頭の中で、何かを想像する。想像したことを文字や絵画に表わすという行為も、個人的な行動です。書かれた文字や絵画を読んだり見たりするという行為も、個人的なレベルで完結します。そこに集団的な要素はありません。物質系につきましても、機能や呪術は、病気を治したいとか恨みを晴らしたいなど、個人的な目的を持っています。また、自分一人がいれば、空間を認識したり、物に何かの象徴を感じたりすることができます。よって、想像系と物質系は個人的な営みであり、他人や集団に依存することがありません。すなわち、自律的だということになります。

 

この章 続く