文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 211 第9章: 心的領域論(その4)

 

4.環世界

 

「環世界」というのは、元々は生物学上の用語だと思われますが、文化人類学においても使用されることがあります。正確な定義はちょっと分かりませんが、概ね「特定の人間や人間集団の認識が及ぶ範囲の世界」という意味だと思います。

 

例えば、幼稚園児にこう言ってみる。「君の知っている人や場所などを地図みたいに描いてごらん」。すると幼稚園児は、自宅、幼稚園、友人の家、父母の顔、いつも遊んでいる公園、もしかすると虫を発見した場所などを描くかも知れない。中年のサラリーマンであれば、自宅と会社、帰りに立ち寄る赤提灯などを描くのではないか。ペットを飼っている人であれば、動物病院を描き加えるかも知れない。国際派のビジネスパーソンであれば、世界地図のようなものを描くかも知れない。現代に生きる私たちの環世界というのは、大体、そんなものではないでしょうか。もちろん、子供の描く地図よりも、経験豊富な大人の描く地図の方が、その範囲は広くなる。しかし、広ければいいというものではない。

 

思えば、優れた小説や映画には、その登場人物にとっての環世界が生き生きと描かれている。昔読んだ冒険小説の「宝島」には、その島の様子が、そしてもちろん宝のありかが描写されていた。シートン動物記には、どんな場所で、動物がどのような行動を取るのか、その様子がありありと描かれていた。私の記憶が正しければ、傷ついた熊が温泉に入って療養するシーンがあった。(後年、私が温泉好きになった理由の一端が、ここにあるような気がします。)スタジオジブリが製作した「風の谷のナウシカ」などにも、登場人物にとって重要な意味を持つ場所や動物が、物語性とリアリティーをもって描かれている。

 

では、現代に生きる私たちの実生活なり、環世界というものは、上に記した小説や映画程、生き生きとし、私たちにとって“意味”があり、重要でしょうか。あなたの答えは、“ノー”ではないでしょうか、多分。現代という時代に生きることの困難さの理由が、ここにあると思うのです。

 

例えば、日本全国、無数に存在する“お地蔵さん”について、想像してみます。道端にお地蔵さんが立っていたからと言って、最近は足を止める人も少ないのではないでしょうか。しかし、思えばお地蔵さんをその場所に立てるためには、相当な苦労があったはずなのです。まず、岩場から適当な大きさの岩を切り出してくる。それを作業場まで運び、今度は、手作業で、お地蔵さんの形を掘り起こす。その作業だって相当なものですが、岩から形を掘り出すという技術を習得するだけでも、何年にも渡る修行が必要です。そして、出来上がったお地蔵さんを田んぼのあぜ道だとか、山の中腹まで運ぶ。そうすることによって、昔は何か、報酬が得られたのでしょうか。多分、そんなことはないと思うのです。お金のためではない。名誉や地位のためでもない。しかし、昔はお地蔵さんを立てるという労苦をいとわない石工の人たちが、沢山いた。では、彼らは何故、そうしたのか。

 

宗教的な理由でしょうか。確かに、それはあったかも知れません。しかし、仏教の教義などというものは、現代人である私にも良くは分かりませんし、例えば識字率だってそう高くはなかった江戸時代に、石工の人たちがそれを理解していたとは考えにくい。

 

では、何故、石工の人たちはお地蔵さんを立てたのか。私の想像ではありますが、それは石工の人たちが自らの環世界を構築するためだったのではないか、ということです。例えば、小川の向こうに山がある。その山には、名前すらない。しかし、その中腹には、自分の作ったお地蔵さんが立っている。それだけで十分、その石工にとっては、その山を認識する根拠になり得る。その山どころか、その石工が生きている世界そのものを認識することが可能になる。あの山の中腹には、俺の作ったお地蔵さんが立っている。あれを作る時には苦労したなあ、などと思いながら、山を見上げる。その山は、もう彼の手中にあると言っても過言ではない。

 

手応えがあり、リアリティーがあり、確固とした環世界というものは、そうやって構築されるのではないか。例えば、あの山には鬼が住んでいたとか、そういう民話も少なからずありますが、これらも人々がその山を認識する、すなわち環世界を構築するための手段だったのではないでしょうか。

 

ユング派の心理療法の手段として、今日でも使用されている「箱庭療法」というのがあります。30センチ四方位の箱に、砂を敷き詰める。その上に人間や動物、植物などのフィギュアを並べて、患者の心理的な世界を構築するというものです。これなども、患者の環世界を再構築する手段だと言えないでしょうか。

 

すなわち、身体系、想像系(アニミズム、融即律、物語的思考)、物質系(象徴、空間表現)の文化は、人間が他人や外界を認識する、すなわち環世界を構築するための手段として進化してきたのではないか、という気がするのです。

 

この章 続く