文化領域論

(No.196 ~ No.    )

No. 212 第9章: 心的領域論(その5)

 

5.閉鎖系の世界へ

 

分析心理学のユングは、アメリカのニューメキシコ州でプエブロ・インディアンに出会った。そこでユングは、初めて白人ではない人と話す機会を得たと述べている。(参考:ユング自伝2 ヤッフェ編 河合隼雄訳 みすず書房 1973)そして、インディアンの村長は、ユングに次のように語った。

 

「つまり、われわれは世界の屋根に住んでいる人間なのだ。われわれは父なる太陽の息子たち。そしてわれらの宗教によって、われわれは毎日、われらの父が天空を横切る手伝いをしている。それはわれわれのためばかりでなく、全世界のためなんだ。もしわれわれがわれらの宗教行事を守らなかったら、十年やそこらで、太陽はもう昇らなくなるだろう。そうすると、もう永久に夜が続くにちがいない」

 

続いて、ユングは次のように記している。

 

「そのとき、私は一人一人のインディアンにみられる、静かなたたずまいと「気品」のようなものが、なにに由来するのか分かった。それは、太陽の息子であるということから生じてくる。(中略)知識はわれわれを豊かにはしない。知識は、かつてわれわれが故郷としていた神秘の世界から、われわれをますます遠ざけてゆく。」

 

すなわち、ユングが出会ったプエブロ・インディアンは、気高く、気品に満ちているとユングは感じていた。そして、その理由が、彼らの宗教にあることをユングは理解したのである。彼らは、人類を代表している。そして、彼らが神と崇める太陽に祈りを捧げている。彼らが祈ることを止めれば、いずれ太陽は昇らなくなる。それだけ重要な役割を彼らは担っているのだ。だから、彼らには自信と誇りがあり、彼らは豊かな精神生活を送ることができていたのだ。

 

なんともスケールの大きな話です。プエブロ・インディアンの認識する世界、すなわち“環世界”は、宇宙にまで達していた。ユングは、彼らを羨ましく思うと共に、そういう確信を持てなくなった現代人の悲哀を述べている訳です。最早、そういう神秘的な仮説を、現代人が信じることはできない。

 

プログレッシブ・ロック系で、“キング・クリムゾン”というバンドがあり、バンドに詩を提供していたのはピーター・シンフィールドという人です。Confusion will be my epitaph (混沌こそ我が墓碑銘)という一節で有名なEpitaphという曲があるのですが、この曲の歌詞には、次の一節も含まれている。Knowledges are deadly friend。(知識とは人々に死をもたらす友人である)。ユングが言っていることと、同じだと思います。

 

どうやら、メンタリティということを考えますと、ここら辺に現代人の課題が見えて来る。このブログでは、“空っぽ症候群”と呼んで、ニートや引きこもりの人たちを批判的に見てきた訳ですが、彼らがそうなってしまったことには、現代的な理由がある。それは、今、世界的な規模で、特に先進諸国で、進行している現象だと思います。また、ビジネスの世界では、うつ病が蔓延している。これは本当に多くて、正確な統計は知りませんが、20人に1人位の割合で、罹患しているのではないでしょうか。

 

何十年か前に、こういう現象に危惧した人たちがいて、「プラグを抜け」ということが良く言われたようです。プラグとは電源のコンセントのことで、つまり、テレビばっかり見るな、ということだったようです。しかし、その後、ネットが登場し、事情は更に深刻になった。今風に言えば、スマホばっかり見てるんじゃない、ゲームばっかりやってるんじゃない、ということになる。

 

この問題を少し文化論の立場から見てみましょう。プエブロ・インディアンの“太陽を手伝っている”という発想は、想像系の中の融即律(未開の直観)ということになります。知識によって、そのような仮説が成立しなくなったということは、想像系の領域に影響を及ぼしていることを意味している。ということは、それ以前のアニミズムも成立しない。その後の“物語的思考”も成立しにくくなって来たのではないか。論理的思考は成立しますが、これは難解である上、環世界の構築には寄与しないような気がします。

 

<想像系>

アニミズム・・・成立しない
融即律・・・・・成立しない
物語的思考・・・成立しにくい
論理的思考・・・成立するが、難解で、環世界の構築には寄与しない

 

記号系から出発して、身体系へと進む。そこに留まっていられる人はまだいいと思うのですが、そこから先に進もう、確固とした環世界を構築しようとした場合、どこへ進めばいいのか。競争系には“序列亡者”が沢山いる。想像系も頼りない。このように考えますと、“空っぽ症候群”に陥った人たちの気持ちも、分かってきます。記号系へ戻ろうと思いたくもなる。

 

また、身体的な能力や美貌というのは、年令と共に衰えて来るので、身体系のメンタリティというのは、ある程度、若くないと維持しにくいのではないか。ここら辺に、中年期の心理的な危機の理由があるように思います。

 

消去法で考えますと、残るのは物質系ということになります。物質系の中の“機能”ではありません。それはもう、充足されている。かと言って、普通、ピラミッドや巨大な建物を作ること(空間表現)はできません。すると、残るは“象徴”ということになる。

 

もう一つ。私たちが認識できる時間や空間の範囲には、限度があります。従って、強固な環世界を構築しようとした場合、その世界には限定が必要だと思うのです。換言すれば、その世界は閉鎖的、閉鎖系の世界である必要がある。冒険小説、宝島の舞台は一つの島だった。ジャングル・ブックの舞台はジャングルの中だった。そういう閉鎖系の世界に生きているからこそ、“象徴”という文化やメンタリティが生きてくるのではないか。反対に、開放系の世界とは、ネットの世界や、都会での生活、グローバリズムなどということになります。これらの世界はどこまでも広がり、物は代替可能で、いや、人間すらも交換可能な世界だと思うのです。豊かな自然に囲まれた“田舎”に転居する人たちの気持ちが分かります。

 

さて、現代人の抱える大きな問題に直面してしまった訳ですが、この章の締め括りとして、ゴーギャンについて、検討してみたいと思っております。自ら南国の孤島に身を置き、絵を描き続けた彼の人生の中に、何かヒントがあるような気がするのです。

 

この章 続く