文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 214 第9章: 心的領域論(その7)

ゴーギャンの描く南海の孤島に生きる人々には、不思議な魅力を感じます。そして、その理由が、分かったような気がするのです。鍵は、ユングにあった。心理学者のユングと画家のゴーギャン。この2人には、共通点がある。ちなみに、ゴーギャンユングよりも28才年上ということになります。従って、ゴーギャンユングの著作を読んだ可能性は、ありません。ユングゴーギャンの絵画を見た可能性は否定できませんが、この2人に現実的な接点はなかったものと思われます。

 

さて、ゴーギャンの作品から、2点ほどピックアップしてみました。

 

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まず、右側の絵から。これはゴーギャンが1892年に描いた「かぐわしき大地」という作品です。なんという力強い肉体でしょうか。彼女の太ももから、つま先に至る豊満さ、そして、揺るぎない自信に満ちた眼差し。圧倒的な存在感です。彼女は、このブログの言葉で言えば、“空っぽ症候群”になど、陥ってはいない。ましてや、“序列亡者”になどなっていない。つまり、彼女は現代病に侵されていない。そんなこととは無関係に、彼女はもっと普遍的な真実を見つめている。そこに魅力がある。彼女を“イブ”と呼んで、差支えないでしょう。イブはその2本の足で、しっかりと大地を踏みしめている。

 

ユングは、プエブロ・インディアンの持つ「気品」に感銘を受けた。それは、彼らが持つ宗教的な信念の強さに由来するものであった。ゴーギャンタヒチの女性に、同じような魅力を感じていたに違いない。ここに、1つ目の類似点がある。

 

ユングは、分裂病患者の見る夢と、世界各地の神話に現われるイメージとの間に、共通点を見い出した。そして、これらのイメージを“元型”と呼んだ。神話の時代、すなわち古代から現代まで、脈々と流れ続けて来た人類に共通するイメージがあると考えた。元型にはいくつかの種類があって、代表的なものは、老賢人、グレートマザー、トリックスターなどがある。

 

(注:Wikipediaは、トリックスターについて、次のように説明しています。「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を展開する者。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、異なる二面性を持つのが特徴である。」)

 

さて、もう一度、ゴーギャンの「かぐわしき大地」をご覧いただきたいのです。ここに描かれているイブは、グレートマザーそのものではないでしょうか。

 

次に、写真の左側の絵について。これはゴーギャンが1902年に描いた「ヒヴァ・オア島の魔術師」という作品です。ゴーギャンが死ぬ前の年に描かれたものです。赤いマントを纏った魔術師、右下には不吉な何かを象徴するキツネと緑色をした想像上の鳥が描かれています。魔術というのは、呪術と同じ意味で考えて良いと思います。現代に生きる私などからすれば、魔術師というのはいかがわしい商売だと思うのです。しかし、この魔術師の瞳も、自信に満ちている。この魔術師は、元型の中の“トリックスター”に似てはいまいか。

 

すなわち、古代から現代にまで伝わる普遍的なイメージがあって、ユングはそれを元型と呼び、ゴーギャンはそれを描いてみせた。追求していたものは、同じだと思うのです。これが2点目の共通です。ユング分裂病患者の夢と向き合い、そしてゴーギャンは未開の地に自ら居住し、そして二人とも神話を研究しながら、古代のイメージを追求したに違いありません。ここに人間の、芸術の、そして文化の原点があると思います。

 

“象徴”ということについて、もう少し考えてみます。「かぐわしき大地」に描かれたイブは、安定、豊穣、生命のシンボルだと思いますが、この絵には不吉な予兆も描かれている。イブの肩口に掛けて、真っ赤な模様のようなものが見えますが、よく見るとこれは、深紅の羽を生やしたトカゲなんです。これも不吉な何かを表わしている。聖書におけるイブがリンゴの実を食べてしまったように、ゴーギャンの描くイブにも、それを脅かす存在が示されている。

 

「ヒヴァ・オア島の魔術師」においては、現実と虚構が対立しているように思えます。魔術師自身は、この絵の中では現実として描かれていると思うのですが、魔術というのは虚構でしかありえません。そして魔術師は、時に人々を惑わせ、時に人々の病を治療する。こう考えますと、一体何が現実で、何が虚構なのか分からなくなってきますが。

 

いずれにしても、人間の世界には、様々な対立軸がある。時間と空間、現実と虚構、男と女、確信と不安。挙げれば、切りがありません。すなわち、人間が生きている世界というのは、調和しておらず、そこはカオスだとも言える。そこで、それらの対立軸なり、不調和を何かによって、調和させる。それが“象徴”ということではないでしょうか。もちろん、ゴーギャンは、その絵画によって調和させようとした。そしてゴーギャンは、このことを原始芸術から学んだに違いないと思うのです。古代人の知恵が、ここにある。

 

上に記した事項は、弁証法によって解釈することも可能かと思われます。すなわち、定立があって、反定立がある。それがアウフヘーベン止揚)され、上位のレベルで総合される。

 

パースは、「広く宇宙全体が、あるいは宇宙に存在するいっさいのものが、カオスから秩序へ、偶然から法則へ、(中略)進化する」と考えていたようです。宇宙全体のことは私には分かりませんが、人間の世界ということを考えますと、少なくとも今後10万年位は、カオスのままではないかと思います。様々な対立があるからこそ、そこにエネルギーが生まれるような気がするのです。

 

最後に、ゴッホゴーギャンの人生について考えてみます。

 

ゴッホのメンタリティは、あくまでも共感を求める身体系と、絵画という物質系にあった。ゴッホは、あくまでもこの2つの領域で生きた。絵を描きながら、ゴッホは他の人の共感を求め続けた。家族も持ちたいと願っていた。そして、ゴッホにとって身体系の世界に通ずる人間は、弟のテオだけだった。確かにテオはゴッホを理解しようとしたし、ゴッホに共感していたに違いありません。しかし、ゴッホの絵は売れず、ゴーギャンゴッホに共感しなかった。ちなみに、ゴッホが耳を切り落としたというのも、身体系のメンタリティの顕われではないかと思います。そして、失意のうちにピストル自殺を図った。天才なるが故の不幸な人生だったのではないでしょうか。ゴッホの絵画を見直しますと、やはり、あの黄色い太陽には狂気を感じる。

 

一方ゴーギャンは、株式仲買人として競争系の世界で成功した。また、メット夫人との間に5人の子供も設け、身体系の世界でも充足していた。しかしゴーギャンは、運命に翻弄されながらも、双方の世界とメンタリティを捨て、画家という物質系の世界に入って行った。続いて、想像して絵を描くという想像系のメンタリティを獲得した。

 

Wikipediaによりますと、実際、ゴーギャンゴッホに“想像で絵を描け”と繰り返し主張したようです。そしてゴッホは、ゴーギャンの意見に従い、何度か想像上の絵を描いてみたのですが、うまくいかなかったそうです。思えば、ゴーギャンも酷なことをした。メンタリティの領域というのは、そう簡単に超えられるものではない。そのことをゴーギャンが知っていれば、ゴッホにそれ程強く意見することもなかったのではないか。ゴッホは、頭ではゴーギャンの意見を理解しようとしたものの、その意見を受容する想像系のメンタリティを持ち合わせていなかった。(ただ、ゴーギャンの名誉のために付け加えておきます。一般にゴーギャンゴッホを見捨てたと思われているようですが、実際には、ゴッホが自殺するまで、ゴーギャンゴッホとの文通を続けていたようです。)

 

ゴーギャンの晩年は、一見、みすぼらしいものだったようです。2度目のタヒチ行きを果たしたゴーギャンは、タヒチの近代化に失望し、更なる未開の地を目指しヒヴァ・オア島に辿り着いた。そして、不衛生で粗末な小屋の中で心臓発作を起こして死ぬ訳ですが、彼の死を看取ってくれる女性はいなかったそうです。

 

身体系と競争系を捨て、物質系(象徴)と想像系の世界を獲得したゴーギャン。彼にとって一番大切なものは、何だったのでしょうか。それは、絵画や木彫りなど、彼が生み出した芸術作品だったはずです。そして、明らかに彼は、自らの環世界を見事に構築した。彼は人間の生きる世界とその本質を認識し、それは確信に至っていたに違いないと思います。期せずして、ゴーギャンの遺作は、自画像となりました。視力も低下したゴーギャンは、眼鏡を掛けています。若かった頃の自画像とは違い、ここに描かれたゴーギャンには、活力が感じられません。しかし、眼鏡の奥から何かを見据える眼光に憂いはなく、そこには皮肉さや不吉な予兆もないのです。遂にゴーギャンは、未開の心を獲得したのだ。私は、そう思っています。

 

この章、終り