文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 215 第9章: 心的領域論(その8)

(第9章は、前回の原稿で終了する予定でしたが、書き漏らしている事項がありましたので、本稿を追加することに致しました。それにしても、暑いですね!)

 

7.好奇心の射程

 

5つの心的な領域があって、各領域の間には壁がある。その壁をダイナミックに越えてみせたゴーギャン。反面、ついに越えることのできなかったゴッホ。二人のこの違いは、どこから来たのでしょうか。生まれ持った素質の違いでしょうか。私はむしろ、二人の経験の差に理由があると思うのです。フランスに生まれたゴーギャンは、ペルーで幼年期を過ごす。そこで、古代の陶器や歴史に接した。その後もゴーギャンは、船乗りになり、世界各地を見て回った。他方、ゴッホは日本の浮世絵などに興味を持ったものの、生涯を通じて、ヨーロッパ圏の外に出た形跡が見当たらない。

 

一般に「広い視野を持て」ということが言われますが、この言葉には2つの解釈が成り立つと思うのです。人間は、時間と空間の中で生きている。従って、より長い時間と、より広大な空間を認識せよ、ということが考えられる。これが1番目の解釈です。そして、ゴーギャンの方がゴッホよりも広い視野を持っていたことが想定されます。

 

例えば、野球少年に「視野を広げろ」と言ったとしましょう。すると、彼はサッカーを始めるかも知れない。例えば、歌うことの好きな少女にも、同じことを言ってみる。すると彼女は、ダンスを始めるかも知れない。しかし、本質的にこれでは、彼らの視野が広がったことにはならないと思うのです。野球もサッカーも、競争系です。歌も踊りも身体系です。これらの領域の壁を乗り越えなければ、本当の意味で、視野を広げたことにはならない。領域の壁を乗り越えろ。これが2つ目の解釈です。

 

だから、若い人、すなわち人生の前半を過ごしている方々に対しては、好奇心を持て、そしてその時間と空間における射程距離を伸ばせ、領域の壁を乗り越えろ、と申し上げたい。

 

ところが、一生を通じて、好奇心の射程を伸ばし続けることは困難です。そもそも、グローバリズムやインターネットなどの開放系の世界というものは、認識することが困難で、いくらその世界に身を置いていたとしても、自らの環世界を構築することはできない。従って、人生の後半を生きておられる方々に対しては、閉鎖系の世界へ行き、そこで手応えのある環世界を構築されることをお勧めしたいと思うのです。タヒチやヒヴァ・オア島を目指したゴーギャンのように。

 

私の作成した「文化とメンタリティの関係図」に照らして言えば、ゴーギャンの人生は、左半分、すなわち身体系と競争系から始まり、右半分、すなわち想像系と物質系において完結したことになります。素晴らしい人生ではないでしょうか。身体的には、衰える。だから、いつまでも身体系の世界に身を置くことは困難だ。また、いつまでも競争系の世界にしがみついていると、周囲に迷惑がかかる。日馬富士暴行事件、日大アメフト部、そして今度はボクシング協会の問題が報道されています。全て序列社会、すなわち競争系の世界で問題が起こっている。権力を手にした者は、その引き際が大切だと思います。

 

ところで、この心的領域論をパースに説明したとしたら、彼はなんと言うでしょうか?

 

「君、全ては記号なんだよ。序列というのも記号だし、人が着飾るのも記号だ。想像すると言ったって、それは言葉という記号を使っているに過ぎない。君は象徴ということを言っているが、その象徴というのは、記号そのものじゃないか!」

 

多分、パースはそう言うでしょう。その通りだと思います。全ては、記号なんです。しかし、全ては記号であると言ってしまうと、何がなんだか分からないじゃありませんか。だから私は、各領域に名前を付けて、すなわち記号化して、認識しようとしているんです。パースには、そうお答えしたい。

 

最後に、ユングが元型と呼んだ古代人から現代人にまで伝わるイメージとは、「文化とメンタリティの関係図」のどこに該当するのか、という問題がある。悩ましいところではありますが、結論から言えば、元型は関係図には現れて来ない。すなわち、元型とは未だ心の様式を備えておらず、心以前の、混沌とした未分化なものだと思うのです。

 

この章、終り