文化領域論

(No.196 ~ No.228)

古池や

暑中お見舞い申し上げます。

 

さて、今回は非公式原稿ということで、日常生活における所感を少々。

 

先日、バスに乗っていましたら、向かいの席に赤ん坊を抱っこした、若い母親が座っておられました。抱っこ紐というのでしょうか、母親と赤ん坊の体は、しっかりと結びつけられている。暑いのに、大変だなあなどと余計な心配をしておりましたところ、赤ん坊がグズり始めた。すると母親はすっくと立ち上がり、吊革につかまりながら、膝を曲げ伸ばしして、体を揺らし始めたんです。よく見る光景ですよね。すると、赤ん坊は機嫌を直したようでした。そこで私は、リズムの起源がここにあるのではないか、と気付いた。

 

母親と赤ん坊の体は、抱っこ紐で連結されている。従って、母親の体の動き、別の言い方をしますと、母親が刻むゆったりとしたリズムを赤ん坊は共有している訳です。同じリズムを共有することで、赤ん坊は母親の存在を強く感じ、安心して、機嫌を直した。

 

いにしえの時代から、人間はリズムを刻み続けてきた。その目的は、複数の人間が同じリズムを体感する、共有することによって、連帯感を育むことにあった。上に記した親子の行動が、その証左である。ひいては、これが音楽の起源であろう。

 

話は飛びますが、芭蕉の句について、考えてみました。

 

古池や 蛙飛び込む 水の音

 

この「古池」という一語によって、空間と過去の時間が表現されている。池というのは空間の説明ですが、それが古い、すなわち過去の時間の蓄積を持っていることをこの単語は指し示している訳です。例えば、池の水は、プランクトンが繁殖して、緑色に濁っているに違いない。台風などの影響で傾いた木が、水面に影を落としているかも知れない。そういうイメージが、沸いてくる。

 

続いて「蛙」が登場する。これは、正確には爬虫類なのかも知れませんが、このブログで繰り返し述べてきた「動く生き物」という意味では、動物の一種だということにしましょう。動物は、動くし、声をあげるので、兎に角、人間の注意を引き付けてきた。そして、この句にも「飛び込む」という動的なイメージを付与している。別の言い方をすれば、「蛙」はこの句において、情景を認識するための象徴的な記号としての役割を果たしている。

 

最後に「水の音」が現れる。ポチャンというその音は、一瞬にして現出し、消える。すなわち、「現在」を意味している。このように考えますと、わずか17文字のこの句には、池という空間、その空間が持っている過去の歴史、そしてポチャンという音が聞こえた「現在」という時間が表現されている。

 

素晴らしい句ですね。記号を通じて、時間と空間を認識しようとしている。

 

しかし、何かが足りない。この句には、人間が出て来ない。蛙が飛び込んだポチャンという音を聞いたのが人間だ、という意見があるかも知れません。しかし、音を聞いたというだけでは、その人間の体温が伝わって来ない。無の境地だ、という人もいるかも知れません。しかし人間というのは、常に何かを思い、その五感を通じて記号を認知し続ける動物です。無ということは、あり得ない。

 

西洋と東洋とで、歴史的な違いがある。一概に、どちらがいいとは言い切れませんが、西洋の歴史は、良くも悪くも振り子の振り幅が大きかったのではないか。一方では、中世の魔女狩りだとか、ナチズムのように残虐非道な歴史があり、他方、哲学や心理学などの内省的な文化を育んできた経緯もある。

 

いずれに致しましても、「人間とは何か」という根本的な問題について、論理的に考え続けてきたのは西洋だという気がします。