文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 216 第10章: 文化総論(その2)

 

3.言葉と手

 

以前、記号系、競争系、身体系の3領域は、人間以外の動物にも共通するものだ、と述べました。すなわち、動物も記号を通じて外界を認識し、マウンティングを行い帰属集団の中で序列闘争を繰り広げ(競争系)、互いに毛繕いをするなどして親和的な関係(身体系)を築いている。

 

では、想像系と物質系は、何故、人間に固有のものなのか。

 

その理由は、人間が2足歩行を始めたことによるのではないか。かつてアフリカの森林にサルが住んでいた。やがて、地球の気候変動によって、森林は枯れ、サバンナが現れる。地面に降り立ったサルは、2足歩行を始めた。立ち上がったことによって、サルの気道は拡張され、様々な音声を発するのに適した体になった。そして、言葉を話し始めたサルが、人間になる。

 

人間は、言葉によって様々な概念を作り出し、外界を認識するようになった。そのシステムは、“昨日”という日を思い出す記憶という機能と、“明日”という日を想像する力を生み出したに違いない。そして、“想像系”という文化とメンタリティが誕生した。

 

また、2足歩行によって、歩くという行動から解放された手が、物を触り始める。果実をもぎ取る。物を持ち上げる。運ぶ。そういうことが可能となり、やがて、人間は物に働き掛けることを覚える。そして、“物質系”の文化とメンタリティが創出された。

 

このように考えますと、想像系と物質系が人間に固有であることの理由が分かる。言葉を話し、両手で物を加工できるのは、人間だけです。

 

ところで、仮にネアンデルタール人が現代に生きていたとして、彼がヒゲを剃り、スーツを着てニューヨークの地下鉄に乗ったとする。それでも、彼がネアンデルタール人であることに気付く人はいないだろう、と言われています。また、人間の脳の大きさというのは、昔から変わらないそうです。すなわち、仮に5万年前のホモサピエンスの赤ん坊が現代に生まれたとしても、その赤ん坊は、立派に現代社会に適応する。逆もまた真なりで、現代の赤ん坊が5万年前の社会にタイムスリップしたとしても、その赤ん坊は立派な古代人として、古代社会に順応するに違いありません。すなわち、人間を身体と文化に分けて考えた場合、古代人も現代人も身体に変わりはない。脳の大きさでさえ、同じだ。古代と現代とで何が違うかと言えば、それは文化的な蓄積が違うだけだ、ということです。

 

すなわち、現代人は生まれてからわずか20年程度の間に、何万年という人類文化の蓄積を学ばなければならない。そして、特に想像系と物質系の文化なりメンタリティというものは、学ぶ必要がある。

 

4.対立関係

 

上記のように考えますと、記号系、競争系、身体系の3つは、人間の本能的なレベルに属するもので、これは簡単にはなくならない。他方、想像系と物質系は、正に、人間が人間であるために必要な文化であり、メンタリティであることが分かる。こちらも、そう簡単にはなくならない。ということは、人間の社会というのは、ほぼ永遠に対立関係を克服できないことになります。

 

そもそも、競争系という領域においては、人々はひたすら序列闘争を繰り広げている。物質系の内部においても、対立関係の例は枚挙にいとまがありません。例えば自動車の駆動方式にしても、以前は、ガソリン車とディーゼル車が対立していました。しかし、電気自動車が登場し、更に燃料電池なるものが現われ、今はこの2つが対立している。ガソリンと電気を組み合わせたハイブリッドという中間的なものもある。

 

加えて、領域間の対立も激しい。例えば、競争系のメンタリティは、「韓国よりも日本の方が、序列が上だ」と思って、韓国を蔑み、ヘイトスピーチを展開する。ところが、共感を求める身体系のメンタリティの人々は、序列なぞということは考えない。ぺ・ヨンジュン氏ら韓流スターに憧れ、韓流ドラマに涙する。Kポップに夢中になる男たちだって、少なくはない。

 

競争系のメンタリティは、多様性に反対し、LGBTには生産性がないなどと妄言を吐き、夫婦別姓にも反対する。他方、想像系のメンタリティは多様性と人権を尊重する。今日においても、宗教と科学が反目し、資本主義と共産主義が対立している。

 

これらの対立は、アウフヘーベンによって解消(総合)されたりしないのではないか。仮に一つの対立関係が解消されたとしても、そのことが契機となり、新たな対立関係が生まれる。そもそも人類は、2足歩行を始めた時点で、対立関係を抱えて生きていく宿命を背負ったのではないか。ただ、この対立という図式が、人類にエネルギーを投入してきたことも、否定はできない。勝ちたい、負けたくないという気持ちとか、自分の考えの方が正しいはずだ、彼らは間違っているという信念が、人類を行動にかり立ててきた。そういう側面もあると思います。

 

この章、終り