文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 217 第11章: 現在事実、記号、そして情報(その1)

 

文化領域論につきましては、当初から目次を公表し、第10章までは目次通りに掲載してまいりました。しかし、目次を作成してからそれなりの時間が経過し、私の心変わりも生じております。悩ましい所ではありますが、当初の目次通りに進めるより、少しでも充実した原稿を掲載することの方が大切ではないかと思い、少し変更して記載してみることにしました。

 

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いきなり脱線して恐縮です。上の写真にある石は、実は、昨日拾ったものです。近所のコンビニへ行く道すがら、見つけたのです。手に取ってみると、その複雑な形に魅力を感じ、持ち帰りました。工夫して、石を立てかけてみました。それだけだと寂しいので、木彫りの象を置いてみました。写真のタイトルとしては、「象が立ち去る」というのはどうでしょうか。岩陰から象が現われ、そして立ち去っていく。そんなイメージです。何をしているんだ、という気がしないでもありませんが、どうやら私は古代人のメンタリティを獲得したようで、ささやかな写真ではありますが、こんなことでもしているとちょっと楽しいのです。

 

さて、終戦記念日の時期になりますと、人生の諸先輩方が、戦時中の話を語ります。中には、想像を絶するような極限状況が語られる場合もあります。そうか、それは大変だったなあ、絶対に戦争を繰り返してはいけないなあ、と思います。しかし、それだけではなく、ちょっとした違和感を覚える場合もあります。何か語り手が、戦争を知らない私のような人間よりも優位に立っている。そんな気配を感じてしまうのです。それと同時に、先輩諸氏の話は、「物語的思考」だなあと思うのです。彼らは明らかに、「過去」について語っている。そしてその時、自分がどう感じたか、何を思っていたか、ということを語る。しかし、そこで語られていることが事実なのかどうか、それは分からない。何か、意図的に消去されている事柄もあるだろうし、ちょっと付け加えられている事もあるのではないか。そもそも、「物語的思考」というのは、そういうものだろうと思います。

 

戦争体験とは異なりますが、典型的な例としては、昔の偉人がこうおっしゃった、というパターンもあります。「昔、お釈迦様はこうおっしゃった」という具合です。だから、それが真実なんだという主張になる訳ですが、論理的には飛躍がある。その飛躍の部分は「お釈迦様ほど偉い人がおっしゃったのだから、間違いはない」ということで、説明を回避している。こういう話が得意なのは、宗教家と文学者ではないでしょうか。論理的に考えた場合、彼らの話というのは、はなはだ分かりづらい。

 

「物語的思考」というのは、経験から導かれているのではないか。これって、漢方薬に似ていると思うのです。経験的にこういう痛みには、この草が効くということを人間は知っている。そして、何故効くのかは分からないが、人々は今でも漢方薬を使っている。それと同じで、「物語的思考」というのは人間の経験の積み重ねがあって、論理的に何故そういう結論が導かれるのか説明はできないが、経験的にそうであることを知っている。そういうものではないでしょうか。

 

それはそれで、貴重な人間の知恵だと思います。しかし、反面、「物語的思考」は危険性を孕んでいる。作家で、今は出家されている瀬戸内寂聴さんが少し前に死刑制度について語ったことがあります。当初、彼女は「死刑のような野蛮なことをするのは馬鹿者だ」というようなことをおっしゃった。すると直ちに、犯罪被害者の遺族らから反論が巻き起こった。被害者感情を何と心得るか、ということです。そして、寂聴さんは「大馬鹿者は、私だった」と言って謝罪したのです。このような問題について語る際には、当然、法律論の基礎程度は心得ておかなければならない。法律とは、すなわち「論理的思考」のことです。

 

多分、年寄りの昔話や「物語的思考」には辟易する、という人は少なくない。経験とは、あくまでも個人的なものだと思うのです。同じ戦争体験でも、そこで経験された事柄というのは、十人十色のはずです。家を焼かれてしまった人もいれば、家族を失った人もいる。そのことを語り、聞き手に何かを伝えるためには、経験を対象化し、普遍的な原則のようなものを導く必要がある。加えて、昨今のように変化の激しい時代になると、過去の経験が役に立ちづらくなっている。

 

では、現代という時代は、どういう時代なのか。ネットで、こんな時代区分を唱えている人がいました。

 

狩猟の時代
農耕の時代
工業の時代
情報の時代

 

この時代区分は、概ね、私の認識に合致します。そして、現代は「情報の時代」ということになります。

 

情報とは何かと考えますと、その根源は「過去の経験」ではなく、「現在の事実」だと思うのです。最近で言えば、「ボランティアのおじさんが、迷子を発見した」という事実があった。まず、事実があって、それが記号化される。すなわち、文字で表現され、画像で表現され、音声で表現される。これらの記号の集積が、情報です。そして、ここでも記号原理が働く訳です。密度と鮮度の高い記号、情報が求められる。1日前の情報ですら、その価値は失われる。人々はひたすら、最新の情報を追い求める。

 

「過去の経験」から「現在の事実」へ。私たちは今、そういう世界に生きている。

 

この章、続く