文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 224 第14章: 原理の発見(その1)

この「文化領域論」も、いよいよ最終的な段階に入りました。本章におきましては、未だ検討が不十分であると感じておりました「想像系」について、記載することに致します。

 

さて、記号学のパースは、科学的な発見には2種類あると述べています。1つ目は「○○であることの発見」です。これは、「自然界はこうなっている」ということの発見だそうです。例えば、地動説。回っているのは、地球の方だ、という事実、現象に関する発見です。便宜上、ここでは「現象の発見」と呼ぶことにしましょう。

 

2番目の類型は、「何故、そうなっているのか」という発見です。例えば、万有引力の法則があります。ニュートンは、何故、リンゴは地球の中心を目掛けて落下するのか、その理由、原理を発見した訳です。ここでは、「原理の発見」と呼ぶことにしましょう。

 

地動説も万有引力の法則も、科学上は、大変重要で画期的な発見です。しかし、この2つの間には、大きな違いがある。現象の発見というのは、観測によって成し遂げられる。一方、原理の発見は、もっと複雑な思考のステップを必要とするに違いない。加えて、原理が分かれば、その原理は他の事例にも当てはまるので、汎用性がある。実際、ニュートンは地球が引力を持っていることのみならず、太陽や月など、あらゆる星が引力を持っていることを発見した。

 

このような観点から、文化論の立場で、現象の発見から原理の発見に至る4つのステップと、それが思想として成立する過程について、検討を進めてみます。

 

1.現象の発見

 

文化的な現象を調査してきたのは、民俗学文化人類学です。この分野の学者たちは、フィールドワーク(現地調査)を旨とし、ひたすら現象の発見に努めてきた。その努力には、脱帽します。衣食住の全てにおいて不便な環境にあって、時には現地の伝染病に罹患しながら、彼らは無文字社会の人々と生活を共にしてきた。しかし、元来、文化人類学にはもっと大きな可能性なり役割があるはずなのに、彼らは研究の成果を体系化できていない。

 

理由は2つあります。まず、言語学者のソシュールが、通時態と共時態ということを言い出した。

 

通時態・・・時間の流れに従って、歴史的な観点から検討すること。

共時態・・・時間の流れを無視して、現在、どうなっているのか、検討すること。

 

そして、ソシュールは、例えばある地方の言葉が別の地方に伝播して発音がどう変わったとか、そういう通時態の検討には意味がないので、共時態のみで考えるべきだと主張し、言語の恣意性と線状性という原理を見いだした。

 

これにヒントを得たレヴィ=ストロースが、同じ手法を文化人類学に持ち込んだのです。この時から、文化人類学は、通時態による検討を止めてしまった。これでは、因果関係が分からない。文化というものを体系的に理解することができない。私は、放送大学における「文化人類学」の講座を視聴しましたが、未だに通時態は否定されているように思います。同講座は、「人類にはいろいろな文化があることを学びましょう」と言って始まります。そして、いろいろな文化が紹介されるのですが、体系的な説明はほとんどないのです。

 

もうひとつ。それは、文化人類学の学者が、フィールドワークに固執し過ぎたこと。前述の通り、そこには大変なご苦労がある。そして、フィールドワークで成果を挙げた学者には「俺は、こんなに苦労したんだ。苦労していない人間は黙ってろ」というやっかみ半分の意識があるのではないか。彼らは、フィールドワークを経験していない者を「安楽椅子の哲学者」と呼び、揶揄しています。しかし、フィールドワークで知ることができるのは、「現象」であって、それを体系的に理解するには、それこそ「安楽椅子に腰かけて、ひたすら黙考する哲学者」が必要ではないか。例えば、パースのように!

 

私は、共時態で現象を観察するのが悪い、と言っている訳ではありません。共時態と通時態の双方で観察すべきだと思うのです。ひたすらフィールドワークを積んで、英語で論文を書き、学会で発表する。それが世界的な現状なのだろうと思いますが、そろそろレヴィ=ストロースの呪縛から、身を解き放つべきだと思います。

 

2.想像

 

現象を発見した後、人間はどうするか。それは、言葉を用いて想像するのだと思います。サスペンス・ドラマを例に考えてみましょう。まず、遺体が発見される。これが現象です。そして、主人公の想像、推理が始まる。大体、推理される事項というのは、犯人は誰か、犯行動機は何か、凶器は何か、この3点ではないでしょうか。ただ、ここで重要なのは、時系列に事実を並べるということではないでしょうか。まず、犯行動機がある。そして、犯行に関する準備行為があって、犯行に至る。この順番を正しく推理しなければ、真犯人を特定することができません。すなわち、サスペンスというのは、因果関係の世界なんです。それは、時間の経過と共に解明される。因果関係というのは、通時態で物事を見ないと、理解できない。この想像する、時間の流れに従って因果関係を考えるという作用は、神話や小説でも同じですね。

 

「かつて、人は火を持っていなかった。それは、トキイロコンドルのものだった。それを人が盗んだのだ。そして、今、我々は火を持っている。」

 

こういう神話におきましても、時間の流れと因果関係というものが説明されています。私が、物語的思考と呼んできた思考方法が、これです。

 

神話は、やがて宗教の経典となり、その他の物語や小説の原型となった。神話を原型とする点に鑑みれば、宗教と小説というのは、相性がいい。かつての文学者の中に宗教を信仰している人が多かったのには、そういう理由があると思います。

 

神話や小説の利点は、人間の無意識に触れることができる点にあります。人間が、その認識の及ぶ世界、すなわち環世界を構築するのにも役に立ちます。すなわち、神話や小説には、人を癒す効果がある。ただ、神話や小説によって、人間は原理を発見するには至らない。そのためには、もう少し段階を経る必要がある。

 

この章、続く