文化領域論

(No.196 ~ No.228)

No. 228 文化領域論 あとがき

文化領域論をお読みいただきました皆様、どうも有り難うございました。前回の原稿をもちまして、完了と致します。こんな面倒なことを何故、始めてしまったのか、途中、何度も後悔しましたが、なんとかゴールすることができました。

 

ここに記載しましたことは、永年、私が疑問に思ってきたことばかりです。しかし、その答えは、誰も教えてくれなかった。だから、自分で考えるしかなかったのです。但し、多くの人たちから、ヒントはいただいた。文化人類学のフィールド・ワーカーの方々、ユング、パース、ゴーギャンマイルス・デイビスなど、挙げれば切りがありません。

 

さて、この文化領域論は、文化と人間のメンタリティを5つの領域に区分するところから始まりました。この考え方につきましては、私は日々、確信を強くしました。その点で、少なくとも文化領域論は一つの主張として、破綻はしなかったと思います。ただ、細部におきましては、幾多のミステイクがあったものと心得ており、この点は反省しています。

 

例えば冒頭で、「認識とは、本稿の主題とは関係がない」と述べてしまいましたが、これは誤りだった。文化とは、人間が、時間と空間から成り立つこの世界と人間自身を認識しようとする試みと挫折の歴史だ。そういうことが、途中で分かってくる。

 

古代・・・自ら考えて、物を作る。

中世・・・先人から教わって、物を作る。

近代・・・大量生産による商品を購入する。

現代・・・より付加価値の高い物を求めて、情報を探す。

 

簡単に記せば、上記の経緯があって、現代は情報の時代になった。しかし、現代人が情報を求めるのも、その目的は世界を認識しようということです。ただ、表層にある情報だけを求めるという態度には、賛成できない。その背後にある原理を発見すべきではないか、というのが私の立場でもあります。そのことを、論理的思考という言葉に込めたつもりです。

 

ただ、論理的思考に至るには、様々なハードルがある。例えば、「信じろ」

と命令する宗教。「俺は社長だ、俺の言うことを聞け!」と主張する競争系の組織やメンタリティ。貧困に伴う教育の機会喪失。長時間労働。枚挙にいとまがありません。

 

それでも、より多くの方々が論理的に物事を考えるような社会を目指すべきではないか。例えば、複雑な現代社会において「考えたって、どうせ分かりやしない」と思っている人がいるかも知れません。しかし、この点、私は楽観的な立場を取っています。落ち着いて、良く考えれば、大概のことは分かるに違いない。私は、そう思っています。

 

なお、このブログの今後についてですが、文化領域論の目次を作り直そうとか、そういうアイディアはあるのですが、その後のことは白紙です。いずれにせよ、暫く休みます。充電して、石拾いにでも行って、何か思い付いたら、その時は再開することにしましょう。

 

どうも有り難うございました。