文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 232 集団スケールと憲法

 

前回の原稿で、「私がここまで勉強した範囲では、平和主義にはあまり長い歴史がなく、第2次世界大戦後に出てきた考えた方ではないか」という趣旨のことを書いてしまいましたが、正確なことが分かりましたので、訂正させていただきます。文献1に、「早くは1791年のフランス憲法が征服戦争を放棄した(第6編)例があ」るとのことです。

 

また、文献2における樋口先生のご説の要旨は、立憲主義と民主主義は、究極的には対立する、ということのようです。引用させていただきます。

 

-論理を極端に押しつめた「民主」は国民意思に基づく権力を絶対化するから「立憲」と対立し、「立憲」がその論理を押しつめようとすればするほど国民意思の発動に対する抑制要因を強めようとするから「民主」と対立する。-

 

ちょっと難しいですね。まず、民主主義というのは、「権力への自由」であって、その主眼は参政権であり、具体的には選挙という形を取る。そのため、民主主義を極端に解釈した場合、国民から選ばれた政治家は何をしてもいい、ということになる。例えば、現在、国会では入管法(移民法)の審議がなされていますが、法務省の開示した失踪外国人労働者に関する聞き取り調査の結果は、ほぼ、虚偽であることが判明しているし、衆議院での審議時間は極端に短かった。参議院でも、強硬採決される懸念がある。しかし、民主主義という観点から言えば、それでも国会議員は選挙によって選ばれており、その国会議員が安倍総理を選出したのだ。従って、安倍政権は民意を代表しており問題はない、ということになります。

 

しかし、民主主義が暴走した例として、文献2には、次の記載があります。

 

ナチス=民族社会主義ドイツ労働者党が制度としての「民主」の手続を通して権力を手にしたことは、よく知られている。-

 

他方、「権力分立」を旨とする立憲主義の立場から考えますと、まず、直接選挙によって選ばれる議員によって構成される国会は、「国権の最高機関」であり(憲法41条)、国会は国政に対する調査権を持っている(憲法62条)。従って、法案について政府は正確、かつ丁寧に国会に報告する義務を負っているし、強硬採決など、とんでもない、ということになります。

 

上記の通り、突き詰めて考えれば、民主主義と立憲主義は対立する可能性があるものの、立憲主義は民主主義と結びつくことなしには、その能力を発揮することができない。

 

ところで、このブログでは、かねてより人間が構成する集団の大きさ(集団スケール)が文化や人間のメンタリティに影響を及ぼすという問題意識を持ってきましたが、憲法を軸に考えますと、その関係がより明確に見えてくるのです。その階層は以下の4つに区分するのが良い。

 

1. 個人
2. 中間集団
3. 国家
4. グローバル

 

個人が、そのアイデンティティを意識する場合、その帰属している集団に依存する傾向が強い。例えば、私は何者かということを考える際、手っ取り早いのは○○会社に勤めているとか、私は日本人だ、という具合に。

 

次に、中間集団について考えてみましょう。何故中間かと言うと、それは個人と国家の中間にあるという意味です。これは無数にある訳ですが、典型的なのは、宗教教団とか、職業別の団体などが考えられます。かつて、職業とは身分制とリンクしていた。インドにはカースト制があり、日本には士農工商という制度がありました。地域に根差した村落共同体のような集団もあります。

 

そして、憲法に支えられた国家という規模の集団がある。

 

最後に、国家を超えた地球規模での集団がある。国連とか、グローバル企業などが、これに当たります。

 

問題は、中間集団です。かつての宗教団体は、個人の思想を制限していた。多くの場合、子供の頃から、親の信仰する教団に加入させられる。一度入ると、そこを抜け出すのは至難の業となります。職業別の身分制は不平等を生む。また、場合によっては、村落共同体も人権侵害の温床となる。村八分と言えば、ご理解いただけるものと思います。

 

そこで、近代の立憲主義に基づく憲法は、これらの中間集団を解体したのです。日本国憲法に照らして考えてみましょう。

 

宗教教団   → 憲法20条(信教の自由、国の宗教活動の禁止)
職業別団体  → 憲法22条(職業選択の自由
村落共同体  → 憲法22条(居住・移転の自由)

 

どんな宗教を信仰してもいいんだ、どんな職業についてもいいんだ、どこに住んでもいいんだ、ということを憲法は言っている。現代に生きる私たちにすれば当たり前のことではありますが、それらが制限されている時代というものが、確実に存在した。明治憲法を見ますと、「居住及び移転の自由」については定められています(22条)が、信教の自由と職業選択の自由については、規定がありません。それどころか、兵役の義務(20条)が定められている。今更ながら、ぞっとします。

 

さて、人生において最も大切な価値は、“自由”であると私は思っています。すると、当然、日本国憲法は素晴らしい、という結論になります。しかし、誰もがそうという訳にはいかないようです。文献2から引用します。

 

-個人はhomme=人として国家からの自由な空間を獲得するが、その状態を維持するためには、今や自立し自律するcitoyen=市民として自らを陶冶しなければならない-

 

自立も自律もできる強い人はいいけれど、そうでない人はどうするのか。自由なんていらない、中間集団に依存して生きていきたい、と思う人だっている。いや、むしろそういう人の方が多いのではないか。文献2は、更に次のように述べます。

 

-「人はcitoyenたらねばならぬとする、まさに近代的規範意識」が重荷として課せられたのだということ、そして、そのような「近代的規範意識そのものの解体」による「癒し」を求める言説がポストモダンの意味なのだ-

 

自律的に思考せよ、個人として自立せよ、という考え方は、論理的には正しいかも知れないが、それは息苦しさを伴う発想だ。それはつらい。もっと、楽に生きたい。癒されたい。そういうメンタリティが、ポストモダンだと言うのです。そういう考え方は、私にも、分からない訳ではない。例えば、社会学の教科書には、小集団を大切にせよ、と書いてあります。(文献3)

 

-こうした疎外感を社会の機械化に由来するものとみる限り、克服の可能性は悲観視されているが、仮説的には小集団・自発的結社の自律性の確立と多元化に期待がよせられている。-

 

そして、状況を更に複雑にしたのは、「そもそも国家に統治されるのは嫌だ」と考える人々が登場したことだと思います。これが新自由主義と呼ばれるもので、ミシェル・フーコーなどが、この考え方を発案したようです。彼らは、福祉国家社会民主主義などの政策について「我慢のならぬほどの国家の過剰」だと考えた。そして、これに賛同した政治家が、自由競争を強制するような政策を取り始めた。アメリカでは1980年代のレーガン政権、日本では郵政民営化を強行した小泉政権がこの路線で、安倍政権もこの路線を踏襲している。批判を恐れずに言えば、新自由主義は弱肉強食の社会を目指している。私は、そんな価値観を肯定する訳には行きません。

 

国家という枠組みを尊重しないという共通項をもって、新自由主義グローバリズムと連結した。そして、多国籍企業が生まれる。

 

さて、中間集団の全盛期は中世で、国家・憲法が近代、グローバリズムが現代ということになります。ちょっと、整理してみましょう。

 

個人
中間集団・・・・・・(中世)宗教教団、職業別団体、村落共同体(憲法が解体)
国家・・・・・・・・(近代)憲法
グローバリズム・・・(現代)国連、新自由主義多国籍企業

 

樋口先生は、「逃げ去ろうとする憲法」をひきとめ、つかまえ直そう、とおっしゃっています。私も同じ気持ちなのです。

 

文献1:立憲主義日本国憲法 第4版/高橋和之有斐閣/2017
文献2:抑止力としての憲法樋口陽一岩波書店/2017
文献3:社会学の基礎知識/塩原勉 他/有斐閣ブックス/2005