文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

憲法の歴史についての仮説

昨日の毎日新聞に、興味深い記事がありました。何やら、ドイツのメルケル首相が本を出したらしい。その本を紹介する記事の中に、次の一文がありました。

 

ルター派には、宗教の領域と国家統治の領域を区分し、キリスト教徒は国家秩序に従うべきであるとする「二国王説」という原則がある。(中略)ただし国家がイエス・キリストの教えから著しく逸脱した場合には、キリスト教徒の抵抗権を認めている。」

 

これは、宗教改革に関する長谷部先生の説明に通じるところがあります。長谷部先生は、宗教改革によって私的領域と公的領域を区別する考え方が生まれたと言ってました。それらに対応するのが、上に引用した文章の中の宗教の領域と国家統治の領域という言葉に結び付くと思うのです。

 

私的領域・・・宗教の領域

公的領域・・・国家統治の領域

 

新聞記事によれば、上記の区分は、ルター派の考え方だと説明されていますが、ルター派とは、プロテスタントのことではないでしょうか。この点は、別途確認する必要があります。いずれにせよ、宗教改革に、立憲主義の起源がある訳ですが、実は、民主主義の起源もここにありそうな気がします。伝統的なキリスト教の布教組織としてカトリックがあった訳ですが、ここでは聖職者が絶大な権限を持っていた。これに対してプロテスタントは、神の言葉は聖書に書いてあるのであって、その解釈は人々がそれぞれに行うべきだ、と主張したようなのです。ここで、神と人民の間に介在していた聖職者という身分を除外し、神の元に人間は平等であるという発想が生まれたのではないでしょうか。

 

カトリックの場合

神・・・聖職者・・・信者 (3層構造)

 

プロテスタントルター派?)の場合

神(聖書)・・・信者 (神の元に人々は平等)

 

このような考え方は、メルケル首相をはじめ、現代の政治にも影響を及ぼしている。

 

一方、政治の世界はと言うと、宗教改革の後も絶対王政の時代が続いた。そこで、啓蒙思想と呼ばれる考え方が登場する。思想家としては、三権分立を説いたモンテスキューをはじめ、ロックや、社会契約論のルターなどがいる。啓蒙思想というのは、絶対王政と民主主義の中間的な考え方で、一応、絶対王政を許容しつつ、必要がある場合、市民は抵抗権を行使できるとする考え方だと思います。例えば、議会制を採用しはするものの、その議会に王様も参加できる。憲法に従って国を運営するが、その内実としては君主制である。そういう言い方もできると思います。憲法に着目した言い方をすると、立憲君主制ということになります。

 

そういう思想的なバックボーンが整ったところで、アメリカの独立戦争が起こる。イギリスに統治されていた13の地域が立ち上がって、勝利する。ここで、歴史上のミラクルが起こる。勝利した13の地域を代表していたのは、ジョージ・ワシントンだった訳ですが、新天地アメリカ大陸に移住していたヨーロッパ人たちの間には、王権というものがなかった。そこで、立憲君主制という過渡的な制度を飛び越えて、アメリカでは一気に立憲民主制が誕生したのではないか。

 

絶対王政 → 立憲君主制(ジャンプ!) → 立憲民主制

 

アメリカは、独立宣言を公表し、独立戦争に対する他国の協力を求めた。そして、建国後、世界最古と言われる成文憲法を制定する。その際、思想的に拠り所としたのは、啓蒙主義だったのではないか。

 

続いて、フランス革命が勃発する。そして、フランスの人権宣言が生まれる。ここでも、思想的な基盤を支えたのは、ナポレオンのような軍人ではなく、啓蒙主義の思想家だった。

 

ヨーロッパの列強は、植民地を拡大しながら、やがてアジアに侵攻する。開国を迫られた日本は、明治政府を打ち立て、明治憲法を制定する。これは天皇による統治を基本としており、立憲君主制憲法だった。やがて、第二次世界対戦に破れた日本は、GHQからの干渉を受けつつ、日本国憲法を制定する。天皇は象徴として憲法に明記され、天皇による人間宣言なども行われ、日本国憲法は、れっきとした立憲民主制をうたいあげた。

 

敗戦後の日本を形づくる上で重大な影響を及ぼしたのは、天皇制と、憲法9条と、日米安保だったのではないか。憲法9条において、日本は戦争を放棄し、アメリカに防衛してもらうことになった。そこから、日本の対米従属の歴史が始まったに違いない。さて、どうするのか、というのが今日的な課題となっている。自衛隊が必要としない武器まで買わされ、トランプのお友だちに便宜を図るためカジノが解禁され、中国とは仲良くするなとアメリカから圧力を掛けられている。全て、対米従属が引き起こしている。しかし、対米従属が引き起こす問題は、沖縄に最も集中していると言わざるを得ない。すなわち、沖縄について考えることは、日本という国家について考えることに他ならない。

 

ところで、ジョージ・ワシントンという尊敬すべき人物は、アメリカ合衆国の初代大統領に就任しました。しかし、今はトランプである。トランプは、メキシコとの国境に壁を作るための予算を計上しろと言って、ゴネている。議会との間に合意が形成されず、予算の執行が停止し、いくつかの政府機関が閉鎖された。自由の国アメリカよ、何をやっているんだ、しっかりしろ、と言いたい。

 

かの人権宣言を公布したフランスも、今は経済的に困窮し、黄色いベストを着た市民が、毎週土曜日に抗議活動を続けている。もしかすると、彼らは、伝統的な”抵抗権”を行使しているのかも知れませんが・・・。

 

まったくもって、人間の社会というのは、なかなか進歩しない。あきれてしまいます。しかし、行きつ戻りつを繰り返しながら、それでも少しずつ良い方向へ向かうのが人間社会なのかも知れません。

 

さて、上に記した憲法の歴史に関する記述は、私がここまで勉強した範囲での仮説です。概ね、そのラインに従って、憲法の歴史を検証してみてはどうか。それぞれの時代環境に応じて、過去の偉人たちは何を考え、後世の私たちに何を残したのか。そして、私たちは今、どういう世界に生きているのか。その中で、何をどう考えるべきなのか。まずは、認識すること。全ては、そこから始まるに違いない。

 

ちょっと大きなテーマなので、私の力量で持ち上げることができるのか、不安がない訳ではありません。しかし私には、WikipediaコトバンクYouTubeといった強い味方が控えている。ついては、もう少し準備をして、年明け頃から、新たなシリーズ原稿を立ち上げたいと思っております。

 

まだ、仮の段階ですが、タイトル等は次のものを考えております。

 

タイトル・・・憲法の声

キャッチフレーズ・・・耳を澄ませば、きっとあなたにも聞こえる。憲法の声が。

 

では皆様、良いお年を!