文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 236 憲法の声(その3) そして宗教改革が始まる

 

<1517年10月31日 95か条の提題>
ローマ教皇の許可を得てアルブレヒト選帝侯が販売していた贖宥状(しょくゆうじょう)に反発したルターが、95か条の提題(以下「提題」という)をヴィッテンベルクにある教会の扉に掲示した。これが筆写によって各地に伝えられ、大学を中心として普及していった。(文献3, 初版1970年)これが一般的な理解だと思いますが、異なる説明もあります。“提題”は教会の扉に掲示されたのではなく、ルターは自らの上司に当たる司教に書状を添えて送っただけである。その後ルターの教説は、当時普及し始めたイラスト入りの活版印刷物として大量に配布され、普及していった。(文献1, 初版2017年) 但し、どちらの説も“提題”のオリジナルはドイツ語ではなく、学術用のラテン語で記述されていた説明しています。してみると、ラテン語で記述され教会の扉に掲示された“提題”を書き写すというのは、ちょっと不自然に感じます。よって後者の説の方が、より事実に近いのではないでしょうか。“提題”はその後、ルター自身によって、若しくは第三者によってドイツ語に翻訳され、出版された。そんなところではないでしょうか。ちなみに前説を述べている文献3の初版は1970年。後説を述べている文献1の初版は2017年です。47年間も違うのです。やはり、歴史学も進歩しているに違いありません。なお、この時ルターは34才。若いのに、思い切ったことをしたものです。

 

さて、“提題”の中味は、神学上の論点をまとめたものでした。ルターは“提題”をベースとして、神学上の論議が行われることを期待していたのです。そして、“提題”を受領したルターの上司は、これをローマ教会に転送しますが、結局、ローマ教会がルターの要請に応じることはありませんでした。

 

<1520年6月15日 破門威嚇の大教書>
ローマ教皇は、ルターに対し破門を威嚇する大教書を公布した。これは、もしルターがローマ教会に服従しなかった場合、制裁を加えるという威嚇を通知するものだった。

 

<1520年 ルターが「宗教改革」の三大文書を出版>
  8月・・・キリスト教界の改善に関して、ドイツのキリスト者貴族に与える書
10月・・・教会のバビロン幽囚
11月・・・キリスト者の自由

 

<1520年12月10日 ルターが破門威嚇の大教書を焼き捨てる。>
広場に大学教授や学生たちが集まる。そこで、ルターは自らの立場を宣言した上で、ローマ教皇から受領した「破門威嚇の大教書」を燃え盛る薪の中に投じた。特に若い学生たちは、ルターの毅然とした態度に感激した。

 

<1521年1月3日 破門状>
ローマ教会はルターに対し、破門状を発した。

 

<1524年6月~ 農民戦争>
ドイツ西南地域においては、荘園の解体が進み、農民の生活は比較的向上していたが、農民層は彼らの不明確な地位に不満を持っていた。そしてルターの主張にも刺激され、農民戦争が勃発する。1525年の春、農民たちは「キリスト者同盟」を結成した。彼らは、彼らの主張を正当化するために聖書の言葉を引用するなどして取りまとめた「12か条の要求」を公表した。農民たち(キリスト者同盟)の行動は激化し、城、教会、修道院などに火を放つと共に、略奪や放火を繰り返した。この暴動はまたたくうちに各地へ波及した。1525年5月、暴動が鎮圧されかかっていた正にその時、ルターは「農民の殺人・強盗団に抗して」と題した著書を発表した。農民側(キリスト者同盟)はルターに精神的な指導者となることを望んでいたにも関わらず、ルターはその著書の中で「愛する諸侯(貴族)よ、(中略)なしうるものは誰でも刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。」と主張した。農民側の落胆がいかほどのものであったか、想像に難くない。この農民戦争において虐殺された農民は、10万人に及んだ。農民戦争が終わった後も、農民たちはローマ教会に反感を持ち続けたが、最早、ルターに対する信頼も地に落ちたのである。同時に、ルターも深く傷ついた。歴史家は、この農民戦争とルターの関係を、“悲劇”と呼ぶ。

 

この問題を、もう少し考えてみたいと思います。ルターは、農民戦争の動向を見誤ったのではないか、という研究者もいるようです。すなわち、このままでは農民側が戦争に勝利し、教会が無くなってしまうという危機感を持った。そうかも知れません。但し、ここでも2つの領域に分けるというルターの考え方の本質に従って、分析してみた方が良さそうです。後年この2つの領域は、教会と国家とも呼ばれるようになります。

 

私的領域・・・霊的階級・・・・霊的統治・・・・・教会
公的領域・・・世俗的階級・・・この世の統治・・・国家

 

ルターは上記2つの領域は、交わらない方が良いと考えていた。まず、国家の側から教会の領域への侵害という例を考えます。これは、何よりも聖書の言葉に従って信仰を持とうとしたルターにとっては、許しがたいことだった。ルターが贖宥状の販売に激しく異議を申し立てたのは、この例だったように思います。本来、神聖であるべき信仰の世界に、金銭という穢れた要素が持ち込まれた。罪を意識し、罰を求める。それがルターの想定した理想だった。しかし、贖宥状を購入することによって、人々は罰から免除されてしまう。それでは、ルターが理想としていた信仰は成立しない。そういう関係にあった。だから、ルターはローマ教会から破門されても、怖れることはなかった。

 

農民戦争の場合は、贖宥状とは反対の事例だった。すなわち、教会の側から、国家の領域への侵害だとルターは考えたに違いありません。農民たちは聖書の言葉を用いて、自分たちの主張を正当化しようとした。ルターには、これが許せなかったのだろうと思います。国家の領域においては、神の配剤によって職業というものが決められている。従って、人々はその本分を全うするべきだ。そういう国家という領域に神の言葉、すなわち聖書の言葉を持ち込むとは何事か、とルターは考えたのだろうと思います。

 

上記の考え方に違和感を覚えるのは、多分、私だけではないと思うのです。ここにルターの限界があった。すなわち、ルターは教会の領域においては、万人祭司論を展開し、霊的階級を撤廃しようとした。言わば、民主主義的な思想を確立しようとした。他方、国家の領域においては、世俗的な階級を否定し得るロジックを確立できなかった。すなわち、ルターにおける民主主義というのは、50点なんです。ただ、今から500年も前にそういう考え方を発想したところに、ルターの偉大さがある。

 

<1526年6月 カール5世の譲歩>
農民たちの支持を失っても、ルターの考え方は死ななかった。それどころか、聖書に帰れという福音主義は、各地に広まった。そして、フランスやトルコとの争いに翻弄されていた世俗的最高権威にあった皇帝カール5世は、教会のあり方については各領主(諸侯)の裁量に任せることとした。

 

<1529年6月 プロテスタントの由来>
フランスやトルコとの戦いに勝利した皇帝カール5世は、教会のあり方について各領主に与えていた裁量権を撤回した。生粋のカトリックだったカール5世は、「ルター派の地方ではカトリックに対し宗教的自由を与えるが、カトリック派の地方ではルター派に宗教的自由を与えない」ことを国会で決議した。これに反発した福音主義を標榜する5人の諸侯と14の都市は、「2つの宗教を認めることはできない」として「抗議書」を提出した。「抗議書」の中で諸侯たちは、「すべて神の言葉に反するものには同意できないので、このことを神の前で抗議し証明しなければならない」と述べた。この抗議という言葉が、後のプロテスタント(抗議する者)の由来となった。

 

(参考文献)
文献1: 新 もう一度読む 山川世界史/「世界の歴史」編集委員会山川出版社/2017
文献2: 新・どうなっている!? 日本国憲法(第3版)/播磨信義 他/法律文化社/2016
文献3: ルター/小牧治・泉谷周三郎/清水書院/1970
文献4: プロテスタントの歴史(改訳)/エミール=G・レオナール/白水社/1968
文献5: 宗教改革と現代の信仰/倉松功/日本キリスト教団出版局/2017