文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

No. 247 憲法の声(その14) 類似性と差異

 

民俗学折口信夫氏は、人間の認識能力について、咄嗟に類似点を直観する「類化性能」と、反対に差異を認識する「別化性能」の2つがあり、古代人は類化性能によって世界を認識し、現代人は別化性能によって認識すると考えた。

 

古代人・・・類化性能・・・類似点を認識する
現代人・・・別化性能・・・差異を認識する

 

また、文化人類学の領域において、古代人は他の動物を尊敬していたという報告がある。

 

まず古代人が、彼らを取り巻く世界について、どのように認識しようとしていたかを考えてみます。百科事典も、図鑑もない時代です。世界には自分たちと同じように、自発的に動く生き物がいる。これは、動物として認識しよう。また、自発的には動かないが生きているモノがある。これは、植物。もともと、生きていないモノもある。これは、鉱物としよう。古代人は、まず、大雑把に身の回りの存在をこのように認識しようとしたに違いないと思うのです。それは、彼らにとって、重要なことだった。動物と植物は食料になる可能性があるが、鉱物にその可能性はない。いや、むしろ認識すること自体が、とても重要なことだったのかも知れません。

 

上記のように大雑把にグループ分けをする際には、例えば動物であれば「自発的に動く」という類似点に注目することになります。古代人は、自分たち人間も動物だと考えた。同じ動物の鳥は空を飛べるが、自分たちは飛ぶことができない。だから、鳥を尊敬した。また、動物は食べることができるので、往々にして彼らは食人という習慣も持った。すなわち、人間と他の動物との間に、差異を認めなかった可能性すらある。

 

無数の要素が存在する現実世界を認識するための第一歩は、上記のようにグループ分けをすることだったはずだと思うのです。

 

では、現代人はどうでしょうか。例えば、トヨタ自動車のHPを見てみると、まず、大分類としてコンパクト、セダン、SUV、ミニバンなどのグルーピングがなされている。これは、そこにカテゴライズされるべき車種の類似性に着目している訳です。そして、コンパクトという項目には、アクア、ヴィッツ、パッソなどの車種が紹介されています。他の自動車メーカーのHPも、概ね同じような構成になっています。

 

次に、購入者の立場になって、考えてみましょう。クルマを買おうと思う人は、まず、大分類の中で、どのタイプにしようかと考える。しかし、古代とは違って、現代社会においては既に大分類がなされている訳で、自分で考える必要はありません。そして、例えばコンパクトに興味がある場合、トヨタ車の中でそこに列記されているアクア、ヴィッツ、パッソなどを比較検討することになる。この段階では、各車種の差異に注目することになります。更に、ホンダのフィットなども候補になる可能性があります。そして購入者は、厳密に差異を認識しようとする。価格は、燃費は、スタイルは、とチェックすべき項目は少なくない。十分に差異を認識すると、今度は、順位を付けることになります。2台も3台も購入する訳ではありません。少なくとも、自分が購入すべき第一順位のクルマはどれなのか、判断を迫られることになります。

 

現代人の日常においては、同じような場面が無限に存在します。就職先を選ぶ場合から、コンビニで弁当を買う場合まで、現代人は常に差異を認識するよう強制されていると思います。直観的な認識から感情的な反応まで、現代人が重要視しているのは、差異だということが分かります。例えば、現代においては既に生物の分類というのは完成されているので、新種を発見しようとする人は、ひたすら生物の差異と向き合うことになります。

 

すると、どういうことが起こるか。まず、私が“身体系”と呼んできた共感を求めるメンタリティ。まず、共感を求める。しかし、相手が共感しなかった場合、すなわち差異を表明した場合、その感情は反感へと変質します。

 

次に、そもそも差異を前提とした“競争系のメンタリティ”ですが、差異の認識は、人間社会における序列を構成することになります。このように考えますと、私が繰り返し否定してきたこの“競争系のメンタリティ”というのは、実は、人間の認識方法という根源的な所にルーツのあることが分かります。例えば、紙に二つの円が描かれていたとしましょう。現代人ならば、ほぼ間違いなく、どちらの円の方が大きいか、認識するのだろうと思います。では、古代人ならどうでしょう。これは、想像する以外に確認方法はありませんが、もしかすると類似性に注目して、“2つとも同じ形をしている”という類似性に着目するのかも知れません。

 

昨今、日本と韓国は互いに批判し合い、対立しています。政権を維持するためには、両国とも仮想敵国の存在を必要としている、という事情もありそうです。しかし、これが古代だったらどうでしょうか。「お互い、同じ人間じゃないか」。そう思う可能性が高いと思います。もしも現代人が、古代人のこのメンタリティを回復することができれば、世界平和も夢ではありません。それどころか、差別、イジメ、貧富の格差など、現代社会が抱える諸問題を一気に解決できる可能性すらある。よって、これはとても重大な問題だと思うのです。

 

やはり、認識論こそが本質的な問題ではないでしょうか。そこで、哲学中辞典で認識論という項目に当たってみると、次の記述がありました。

 

“学術の著しい高度化のなかで、専門分化が進行し総合性の確保に困難が生じ様々な問題が生まれている。こうした状況においては、学際的研究を含めて専門領域間の交流連携が求められるとともに、総合性確保についての認識論的検討が必要となる。”

 

残念! 学問の分野においても“差異”が過度に認識された結果、専門化、分化が進み、総合性が失われている。例えば、ジョン・ロックは医者の資格を持ち、認識論や政治論の論文を書き、ニュートンと交際し、イングランド銀行の設立に貢献した。これ位オールマイティーな知識を持っていたからこそ、物事の本質に迫ることができたのではないでしょうか。(但し、ロックの時代、病院というものは存在せず、医療は、薬屋とか床屋が片手間に行なっていたそうです。それはそれで、困ったことではありますが・・・。)

 

もう少し、哲学中辞典の頁をめくってみますと、次の記述もありました。

 

“問題状況が巨大化複雑化し、しかも多様で膨大な情報に取り囲まれるという今日の知的状況の中で、認識論も新しい問題に直面している。”

 

こちらも、私がかねてより指摘してきた事項だと思います。特に、人間自身が複雑な社会、経済システムを構築したため、当の人間が認識できる規模を超えてしまったのではないか、というのが私の問題意識でした。こちらも、重要な課題だと思います。

 

<認識論における現代的な課題>
1. 現代人は、過度に差異を認識するため、そこから競争、序列、敵対関係などが誘発される。
2. 現代の社会的環境は、巨大化、複雑化した。そのため、人間が認識することが困難な状況が生まれている。

 

1番目の問題(差異認識)について、日本国憲法は、これを抑制する規定を置いています。平和主義(前文、9条)、法の下の平等(14条)などが該当します。他方、2番目の問題(認識の困難性)に関する規定はありません。こちらは、日本国憲法の制定時以降に生じた問題かと思われますし、そもそも、憲法と直接の関係はなさそうです。(認識論の立場から言えば、政治家や役人は嘘をついてはいけない、という規定があっても良いかも知れません。)

 

上記2つの問題があることが分かりましたが、ではどうすれば良いのか。最近、立憲民主党は”多様性を認め合う”ということを、しきりに主張しています。これは、世界的な傾向だと思いますが、解決に向けた一つの方向性を示すものだと思います。今更、現代人に差異を認識するなと言っても、それは無理です。そこで、差異を認識しても、その差異を受容しろ、というのがかかる主張ではないでしょうか。

 

その他、現時点で抜本的な解決策を私が持っている訳ではありません。今回は、問題点の指摘に留まりますが、このような問題意識を前提として、本稿、“憲法の声”を書き進めていきたいと思っております。

 

文献15: 哲学中辞典/尾関周二 他編/知泉書館/2016