文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

No. 250 憲法の声(その17) 憲法原理の出発点

 

憲法の教科書を読みますと、日本国憲法には次の3大原理があると記されています。

 

1. 基本的人権の尊重
2. 国民主権
3. 平和主義

 

また、自由、平等、平和の3要素を挙げる例も見かけます。民主主義は国民主権と同義だとしても、立憲主義には人権保障と権力分立という考え方が含まれています。これらの分類は、同じように見えて、実は少しずつ違う。では、憲法を支えるこれらの原理の中で、最も根本的な原理は何だろう、との疑問が沸いてきます。

 

「それは、自由だ!」と仮定してみる。しかし、では、人間は何故、自由でなければならないのか。私は自由をこよなく愛していますが、世間を見渡しますと、そうでもなさそうな人たちも少なくない。例えば、自由よりも規律や名声を重視している人たちもいます。昨今の国会中継などを見ますと、官僚の皆さんが自由に発言しているとは、とても思えない。どうも自由から出発しても、その先に発展していかないんです。

 

では、「平和だ!」という前提に立ってみる。しかし、何故、平和が良くて戦争がいけないのか。戦争とは、敵も味方も戦死者を出す。これはいけない。何故、いけないのか。それは人々に人権があって、戦争とは人権を侵害するからいけないんだと思うのですが、では、人々には何故、人権があるのか。このように考えますと、平和ということも、考え方の出発点にはなりえないように思うのです。

 

やはり、考え方の出発点には「平等」ということがあったのではないか。

 

例えば、日本にも戦国時代があったように、ヨーロッパには宗教戦争の時代というものがあって、これはホッブズが言った万人が万人の敵となる“自然状態”だった。そして、権力を持つ王様や教皇はほとんど戦場に行かず、傭兵や一般市民ばかりが死んで行ったに違いない。これはおかしい。そこで、「平等」という考え方が発生した。

 

王様も、教皇も、市民も平等だ。こう考えますと、自由とか人権という考え方が生まれる。平等なんだから、非合理な命令に従う必要はない。すなわち、市民には権力者からの非合理な拘束を拒絶する権利があるはずだ。権力側に非合理な命令を下させてはならない。そのためには、権力分立が必要となる。自国民のみならず、他国民だって人権を持っている。だから、戦争はいけない。

 

このように、平等ということを出発点に考えますと、憲法を貫く諸原理に発展させて考えることができると思うのです。

 

では、人間は何故平等なのか。

 

この問いに対する回答については、本稿が扱った対象の中で最も古いものは、マルティン・ルターが提唱した“万人祭司”です。まず、全知全能の神がいる。それに比べれば、カトリック教会における役位など、たかが知れている。皆、同じ人間ではないか。いかがでしょうか。これには、かなり説得力があるように感じます。

 

次に、ホッブズがいて、彼は、人間の知力、体力に注目した。そして、大差はないというのがホッブズの見解だった訳です。何をもって大差と言うかという問題はありますが、人間の知力や体力に差異があるのも事実です。世の中には、天才的な物理学者がいて、他方、私のように微分積分も理解できないような者もいる。強靭な肉体を持つプロレスラーがいる一方、私のような腰痛持ちもいる。この点に限って言えば、ホッブズの説は、少し弱いように感じます。

 

そしてジョン・ロックですが、彼は当時、ロバート・フィルマーという人が唱えていた王権神授説を徹底的に批判することによって、平等ということを説いた。フィルマーの王権神授説とは、王様はアダムの子孫である、だから偉いんだ、というものだったようです。そもそも、聖書によればアダムとイヴしかいなかった訳で、そうであれば全ての人類が彼らの子孫ではないのか、などと思ってしまいますが、私はこのような神学論争に加わるつもりがない。しかし、ロックは違った。そもそも、アダムの方がイヴよりも偉かったという根拠はない、ということも含めて、徹底した主張を展開したのです。ロックの主張のポイントは、全ての人間は神が作ったものだから同じなんだ、平等なんだ、ということだと思いまが、かなりルターの説に近い。

 

しかし、無神論者の私としては、ちょっと困ってしまう。それでは、神という概念を措定しない限り、人間が平等であるということを論理的に証明できないのだろうか、という問題が生じてしまう。何かいいアディアはないものか、と思案しているのですが、ちょっと思いつきません。

 

多分、無神論という前提に立って、それでも人間は平等だと考えたのは、後世のマルクス主義なのだろうと思いますが、結論は、先送りさせてください。このブログは、16世紀から始めて、まだ17世紀に達したところですので。20世紀の思想を理解している方々にしてみれば、歯がゆいのだろうと思いますが・・・。

 

ただ、現時点で言えるのは、全知全能の神、天地を創造した絶対的な神という概念を措定したキリスト教があったからこそ、平等という概念が生まれた。そして、平等という概念が、その後の憲法原理を作ったのではないか。このことは、言えるのだろうと思うのです。例えば、ヒンドゥー教や仏教をどんなに推し進めても、憲法原理に辿り着くことはないと思うのです。