文化領域論

(No.196 ~ No.228)

政党の立ち位置(その6)

報道によれば、野党の候補者調整をめぐって、国民民主党自由党の協議が難航しているようです。

 

「小沢さん! 国民民主党じゃありませんよ。ここは、太郎さんに力を貸してあげてください!」

 

私は、そう願っているのですが、どうなるでしょうか。「この国の人々、お助けもうす」というのが、山本太郎さんが立ち上げた「れいわ新選組」で、私の意見に最も近い政治団体が、どうやらここなのです。しかし、いかんせん政治家は今の所、太郎さん一人しかいない。お金もないので、寄付金を募っていますが、どうなることやら。

 

さて、ここまで考えてきますと、原理が見えて来る。政治というのも、結局は文化の一形態に過ぎません。すると、政治もなかなか進歩はしませんが、進化する可能性はある。最近このブログへ来られている方々のために、進歩と進化の違いについて、振り返っておきます。

 

進歩・・・一つの方向に向かって、改良を続けること。

 

進化・・・生物の進化と同じで、様々な方向に変化し、適者が生き残る。

 

例えば、コンビニの店長になったと想像してみましょう。カップラーメンの新商品が発売になったとします。売れるかどうかは、分かりません。あなたなら、この新商品を仕入れてみますか? こういう問題だと思うのです。私なら、仕入れてみます。売れれば更に仕入れますし、売れなければ別の商品と入れ換えればいいのです。そうやって、店に並べる商品の種類を進化させていく。そういう経験を積んでいきますと、原理が見えて来る。どうやら最近の売れ筋は、こってり味のようだ。仮に、こってり味のカップラーメンがよく売れるとすれば、そのような原理が成立することになります。しかし、この原理というものも、多くの場合、仮説にしか過ぎない。若しくは、時代の流れと共に変化するものかも知れない。従って、この仮説に固執し過ぎてはいけないと思うのです。例えば、消費者の好みが変わって、こってり味から激辛ラーメンの方が売れるようになるかも知れない。仮説に固執し過ぎれば、進化を阻害することになります。

 

少しまとめてみましょう。

 

1)新しいものは、試してみた方が良い。

2)複数の事例を観察して、そこに共通する原理を発見した方が良い。

3)何故、そのような原理が成立するのか、仮説を立ててみる。

4)仮説に固執せず、更に新しい原理の発見に努める。

 

概ね、上に記したステップが、文化の進化を促進する方法ではないでしょうか。そして、政治にも同じことが言えると思うのです。

 

例えば、共産党。戦時中、日本の体制側は国家神道などと言って、右派で国家という集団スケールの中で活動していました。この時点では、同じ国家という位相で思考していた左派の共産党は、国家権力と真っ向から対立していた。戦後もしばらくは、そういう状況が続いたと思うのです。そのような厳しい社会情勢の中で、平和を主張した共産党の方々には、頭が下がります。

 

今日におきましても、決してブレることなく、政権側の悪事を追及する共産党の活躍には、目を見張るものがあります。よく勉強されているし、論理的だし、真面目な方々が多いと思います。

 

しかし、共産主義というのは、いかがなものでしょうか。そもそも、共産主義国家において、自由は保障されるのでしょうか。共産主義と民主主義は両立するのでしょうか。この点、私は強い疑問を持っています。例えば、志井委員長は、もう19年もの間、現在の役職についておられる。本当に、党内民主主義は確立されているのでしょうか。

 

神も、仮説にしか過ぎません。同様に、共産主義というのも仮説にしか過ぎない。もっと良い考え方が、あるかも知れない。進化を止めてはいけない、と私は思います。余計なお世話だと言われれば、それまでですが。

 

思うに、政治に関わるメンタリティーの比率というものがあって、概ね次のような構成になっているのではないでしょうか。

 

右派・・・・35%

左派・・・・25%

無関心・・・40%

 

更に、現状維持を望む右派は1つにまとまり易く、変革を望む左派は分裂し易い。そこで、野党共闘という問題が生じる。この野党共闘が進まないのは、立憲民主党が悪いというのが、概ねの世評かと思います。しかし、共産党がもし、党の綱領なり党名を変更して、共産主義から脱却したとするならば、野党共闘が一気に進む可能性がある。それどころか、共産党が一気に野党第一党に躍進する可能性だってある。

 

共産党がそのような決心を固めない限り、日本に2大政党制は生まれないような気がするのですが、小沢一郎さん、いかがでしょうか?

 

続く