文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

反序列主義としての”れいわ新選組”

<候補者一覧>

山本太郎・・・参議院議員
はすいけ徹・・・・(元)東電社員
やすとみ歩・・・・女性装の東大教授
木村英子・・・全国公的介護保障要求者組合・書記長 (他)/特定枠2
三井よしふみ・・・(元)コンビニオーナー
野原ヨシマサ・・・沖縄創価学会壮年部/東京選挙区
辻村ちひろ・・・環境保護NGO職員
大西つねき・・・(元)J.P. モルガン銀行資金部為替ディーラー
ふなご やすひこ・・・難病ALS当事者/特定枠1
渡辺てる子・・・(元)派遣労働者・シングルマザー

 

※ 氏名の表記は、れいわ新選組のHPに準じています。

 

私は、木村さんが登場した際には感涙にむせび、野原さんが登場した折には椅子から転げ落ち、ふなごさんの会見を見て腰が抜け、太郎さんが比例に回り、ふなごさんと木村さんが特定枠からの出馬と聞いて、卒倒したのでした。(注:若干の誇張表現が含まれています。)

 

太郎さんは、“れいわ新選組”を立ち上げる前から「街頭記者会見」と称した辻説法を行って来ました。太郎さんのシンパを集めるのではなく、支持者を拡大するのが目的だったため、事前に開催場所は告知されず、聴衆の数も限定的だったのです。太郎さんはそういう地道な努力を積み重ねた後、“れいわ新選組”を立ち上げ、勝負に出た訳です。

 

太郎さんが東京選挙区から立候補した場合、当選はほぼ確実だと見られていました。また、比例から出た場合でも、1人は当選するだろうという調査結果もあります。しかし、特定枠に2人立てた場合、太郎さんはどうなるのか。落選する可能性が高いというのが、専門家の見方ではないでしょうか。

 

私が思ったのは、障害者支援が大切なのは分かるけれども、消費税廃止も大切だ。そして、消費税廃止を訴えるためには、太郎さん自身が当選する必要がある。その前提で考えれば、障害者の候補者は1名にして、この方だけを特定枠に入れる。そうすれば、太郎さんが当選できる可能性も高まる。論理的に考えれば、そういうことだと思います。しかし、換言すれば、これが凡人の発想なのかも知れません。それでは、ワクワク感が生まれない。感動が生まれない。捨て身の戦法で、自身の議席を賭けて、勝負に出る。そうやって、世の中を変えていく。やはり、太郎さんは大物だと言わざるを得ません。

 

また、事の重要性、緊急性ということも考えますと、現にふなごさんや木村さんのように今を生きることに多大なご苦労をされている障害者の方々が沢山おられる。その方々に手を差し伸べることと、消費税の問題とどちらが大切なのか。結論は、言うまでもありません。そして、私は自らの稚拙さを恥じたのでした。加えて、太郎さんは更に先を見据えているに違いありません。すなわち、次の衆院選です。

 

さて、前回の原稿では主に“融即律”ということを軸に、古代のメンタリティについて記しました。やすとみさんは、東京に馬を連れて来ると言っていますが、これも古代人のメンタリティを象徴している一つの現象だと思います。そもそも文化とは、古代人が動物に触発された所を出発点にしている。これが、私の文化論のベースです。また、辻村さんは環境保護ということを言っている。これも、狩猟・採集を生業をとしていた古代人にとっては、当然のメンタリティだと言えます。人間による環境破壊も、その起源は、人類が農耕を始めた時点まで遡ることができる。森林を切り開いて、人類は畑を作った。これが環境破壊の起源だと思うのです。

 

もう一つ、古代人のメンタリティとしては、“類化性能”ということがある。これは、異なる複数の事柄を観察した時に、直観的にそれらの類似点を認識する心の働きのことです。民俗学者折口信夫氏が述べたことですね。古代人は、そういう心理的な機能を持っていた。反対に現代人は、物事の差異を認識しようとする。これが“別化性能”と呼ばれるものです。

 

私は、“別化性能”の弊害は、現代人が序列によって社会を認識しようとしている点にあると思っております。これを本稿では“序列主義”と呼ぶことにします。子供の運動会ですら、勝敗を決め、順位を決しようとする。学校ではテストの点数で順位を決め、会社では役職によって序列を決める。現代の社会は、ほとんど序列によって成り立っている。そこに問題があると思うのです。これに反旗を翻そうという試みが、“れいわ新選組”であると思います。

 

やすとみさんは、子供を叱るなと言っておられる。これは、大人が上で子供が下という序列を否定している。木村さんが国会議員になろうとされているのは、健常者が上で身体障害者が下という序列に対するアンチテーゼだと思います。三井さんは、コンビニの本部が上でオーナーが下という序列に異議を申し立てている。公明党の党首と同じ選挙区での立候補を決めた野原さんは、宗教団体における序列に加え、沖縄 対 東京という対比を提示している。テルちゃんこと渡辺てる子さんは、もっとストレートに金持ち対貧乏人という序列にノーを突き付けている。

 

そのように考えますと、ふなごさんと木村さんを特定枠に指定し、代表である太郎さんが一般枠から出馬するということは、政治団体としての“れいわ新選組”内部における代表と一般メンバーの関係を逆転させるという、圧倒的な序列主義に対する異議を意味している。

 

もう一つ。“れいわ新選組”の候補者には、「当事者」が多い。このことは何を意味しているのか。そもそも、人間は記号を通じて認識していますが、現代人が直面している記号は複雑化し、その量も膨大となっている。そしてそのことが、ある部分では、現代人の認識能力を低下させている。例えば、厚生労働省では膨大な賃金統計を取って、更にインフレ率を算出し、実質賃金が上がっているのか否か、そういうことを算出してきた訳です。(統計不正の問題が発覚して、厚労省は最新のデータを公表していないものと思われますが、学識者の説明によれば、実質賃金は低下しているようです。)すなわち、そのような膨大な記号の蓄積である統計データと、例えばテルちゃんの次のような言葉のどちらに説得力があるか。

 

「私は、一袋27円のモヤシが29円になったのを見て、青くなってんですよ!」

 

間接的な記号、情報、データを見るよりも、より直接的な事象をみるべきだ、という主張が成り立つのであって、ここではそれを“直接主義”と呼ぶことにしましょう。“れいわ新選組”は、社会の諸問題の当事者を候補者として集めた。このような立場をある程度普遍化すれば、“直接主義”と呼んでいいと思います。

 

例えば、現代人であれば、どの地域にどのような種類のイノシシがどれだけ生息しているか、そういうデータを持っています。他方、古代人は、目前の森林にイノシシがいるのかいないのか、匂いや些細な音によって、認識していた訳です。

 

このように考えますと、古代人のメンタリティは、次の式によって表現することができる。

 

古代人のメンタリティ=融即律 + 反序列主義(類化性能)+ 直接主義

 

“れいわ新選組”は、現代社会において、どれだけ古代人のメンタリティを回復させることができるのか、そういう社会実験をやっているものと思われますが、私は、その立場を強く支持しています。