文化領域論

(No.196 ~ No.228)

"れいわ新選組" 安冨さんの馬選挙

このまま40年たったら皆さんは生きていけなくなる、と前川喜平さんが呟き、消費税を廃止しなければロスジェネ世代が死ぬ、と山本太郎さんは言っています。私もそう思います。私たちが生きている現在の社会は、間違っている。間違いだらけだと思います。では、どうすればいいのか。

 

この問題について、短期的な対策を示しているのが、“れいわ新選組”の「緊急政策」です。消費税廃止とか、原発即時禁止が謳われているやつですね。これらについて太郎さんは、自分が総理になったらすぐにやる、と言っている。但し、“れいわ新選組”がもう少し長期的なビジョンを示している点も見過ごしてはなりません。それは、とても本質的な問題です。この点を主に語っているのが、安冨さんと辻村さんということになります。

 

現在、安冨さんは氏名を記載したタスキを掛けて、馬を連れて、都心だとか北海道を行脚されています。すなわち・・・

 

トランスジェンダーの、
・大学教授が、
・馬を連れて、
・選挙活動をしている。

 

・・・ということになる訳で、ちょっとシュールな感じがしますが、そもそも前衛的な文化というのはシュールなものです。デンマークだったでしょうか、人魚姫のブロンズ像があって、観光スポットになっている。しかし、冷静に考えれば、上半身が人間で下半身が魚というのも、かなりシュールではないか。

 

さて、上記の安冨さんの行動ですが、多分、政治学者も経済学者も、説明することができない。しかし、文化論者である私には、痛い程よく分かる。

 

まず安冨さんは、両親から価値観を押し付けられて育った。例えば、子供の頃、安冨さんがアレルギーか何かの原因で鼻をグズグズさせていると、「そんなことでは、立派な兵隊さんになれない」と母親から叱られた。そして、両親の価値観を裏切ることをひたすら恐れて育った安冨さんは、エリートになった。しかし、それでは自分が何かの役割を演じているに過ぎないと感じた。そこで、両親の反対を押し切り、離婚に踏み切る。離婚と同時に、両親との関係を遮断する。その後、女性装を始め、初めて何かの役割を演じるのではなく、本来の自分を発見するに至った。

 

エリートとしての役割が大学教授で、女性装というのがトランスジェンダーの外形につながる。

 

「立派な兵隊さんになる」という集団的な価値観がある。そして、そこから自立できなかった両親がいて、その両親が価値観を押し付けることによって、安冨さんの中にコンプレックスが生まれる。そのコンプレックスから自らを解放していくという、自立した個人としての物語があった訳です。この物語はあくまでも安冨さん個人に帰属するものですが、こういう経験をされる方というのは、実は、少なくない。両親は、若しくは大人は、子供の権利を侵害してはならない。子供を守る。それを政治の基本原理にすべきだ。更に、学歴というのも差別であって、この差別をなくしていくべきだと考える。安冨さんは、個人的な体験をこのように昇華していく。

 

そして、馬が登場する。馬には角も牙もない。馬は平和な動物だし、人間を癒す能力を持っている。そのことを皆に思い出してもらいたい。そういう趣旨で、馬を連れて歩いている。安冨さんはあくまでも馬にこだわっているようですが、私の解釈としては、必ずしも馬である必要はありません。例えば、クジラやイルカだって、ヒーリング効果を持っている。連れて歩くことはできませんが・・・。

 

全ての芸術は、人間が動物に触発された所に起源がある。馬を連れて歩くという行為は、もう一度、原点に立ち返って、すなわち動物と触れ合うことによって文化を再構築しよう、という主張を意味しているのだと思います。

 

古代人は、動物の所作を真似て、踊るようになった。現代日本においても、古い神社では、鶴の格好をして巫女さんが踊るという儀式が残っています。また、古代人は動物の鳴き声を真似て、歌うようになった。

 

動物に触発された古代人は、想像力を身に付けた。そして、多くの物語を作ってきた訳です。これが、民話であり、童話の起源となった。鶴は人間に恩返しをし、桃太郎は3匹の動物を家来として従え、浦島太郎は亀に乗って竜宮城へ行った訳です。現代でもスタジオ・ジブリの作品に、動物は沢山出てきますね。“猫の恩返し”という作品があって、ここでは主人公の女子高生が猫になってしまう。

 

また、狩猟・採集を生業としていた古代人は、狩りの成功を祈って、壁画を描いた。この呪術的行為が、絵画の起源となった。

 

このように、動物を真似る、想像する、食べるという行為が、それぞれ音楽、文学、美術の起源となった。だから人間は、もう一度、動物との関係性を回復させるべきではないか。そうすれば、きっと新しい芸術が生まれるに違いない。安冨さんがそこまで考えているかどうかは分かりませんが、少なくとも直観的に、安冨さんは人間と動物の関係の重要性を理解されているはずだと思います。

 

では何故、それが選挙活動なのか、という問題が残ります。これは、リミット・セッティングだと思います。現実的な、日常的な領域と分割するための境界というものが、文化には必要なのです。将棋を指すには将棋盤が必要で、相撲を取るには土俵が必要で、ボクシングをするためには、リングが必要です。どれも、日常的な空間と、ある文化的行為との間に境界線が引かれている訳です。リミット・セッティングというのは、本来、心理学上の用語ですが、文化を考える際、私はこれを流用しています。もし、選挙とは関係なく、安冨さんが馬を引いて歩いたとすると、そこに意味を発見することは困難となるでしょう。選挙期間中だけ、選挙活動として行うから、そこに意味を見いだすことができる。

 

すなわち、安冨さんの馬選挙は、これを政治活動だと捉えるとその効果には疑問がありますが、これを前衛芸術だと解釈した場合には、傑作だと言えるのではないでしょうか。ジョンとヨーコのベッドインに負けず劣らず、面白い!

 

余談ですが、私は、現代的な課題を解決するためには、古代人のメンタリティを回復させる必要がある、と考えています。そして、最近の原稿において、古代人のメンタリティとは何か、多少なりともその輪郭は見えて来たと思っております。しかし、思えば古代人のメンタリティを体現している人間というのは、現代にもいるのではないか。それは、子供たちです。彼らは無邪気で、好奇心が強く、先入観を持たない。だとすれば私たち大人は、子供たちから学ぶべきではないか。そんなことを考えますと、安冨さんに対し、とても共感が沸いて来るのです。

 

そもそも、現代人は人間に興味を持ち過ぎる。人間にばかり興味を持つから、自分と他人の差異に気を取られることになる。現代人は、もっと動物と触れ合うべきだし、動物に関心を向けるべきだと思います。例えば、あなたが動物の沢山いるサバンナで10日間暮らしたとします。ゾウを見れば、鼻が長いと思う。キリンと出会えば、その長い首に驚く。つまり、差異を認識する訳です。その後で、1人の人間と出会ったとする。そういう場面を想像してみましょう。その時あなたは、その人間とあなた自身との類似点に注目するはずです。あ、私と同じ人間だ、という訳です。その時あなたは、その人間が男だとか女だとか、その人間の学歴がどうだとか、社会的な立場どうだとか、肌の色がどうだとか、国籍がどうだとか、そういうあなたとの差異には、注目しないのではないか。そんなことは、どうでもいい。同じ人間だと認識する、そういう感覚こそが大切なんだ。

 

そういうことを伝えたくて、安冨さんは馬を連れて歩いているのではないか。ちょっと、深読みかも知れませんが。