文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(はじめに)

今回より、新たなシリーズ原稿として「文化認識論」を始めることにしました。このブログでは、「文化とは何か」ということを考え続けて来た訳ですが、どうも人間は文化を動かす原動力のようなものを持っている。それは“知的な本能”とも呼べるようなもので、その主たるものが“知りたい”という欲求ではないか。この欲求を発展的に解釈すると“認識”という言葉に行き当たる。物事の背後に潜む本質を知ること。それが“認識”するということです。

 

例えば、現在、香港では民主化を希求するデモが続いています。デモを鎮圧しようとする警察の暴力によって、既に数名の市民の命が奪われています。詳細は、ジャーナリストである田中龍作氏のツイッターに動画を含めた情報が掲載されています。このまま行くと香港は中国の支配下に置かれてしまう。すると、自由も人権も、すなわち民主主義が奪われてしまう。そういう危機感から、香港の市民は命がけでデモに参加しているのです。香港の人々にとっては、命を掛けてでも守るべきもの、それが民主主義なのです。

 

他方、日本はどうかと言うと、一応、外形上の民主主義は守られています。しかし、先の参院選投票率は約49%だった。すなわち2人に1人の人が投票にすら行かなかった。この点、最近では「学習性無力感」ということが言われています。すなわち、世の中を良くしたいと思って何度も選挙には行ったが、政治は一向に良くならない。そういう経験から無力感に陥って、選挙に行かなくなるという説です。確かに、そういう人も中にはいるでしょうが、私はそれが主たる原因ではないと思うのです。むしろ、日本の人々は複雑化した現代の政治を認識できなくなった。どの候補者や政党に投票すべきか分からない。だから、選挙に行かない。これが主原因ではないでしょうか。

 

かつて、日本の自殺者は3万人を超えていました。それが、最近は2万人強にまで減少している。本当にそうでしょうか。どうも統計上の手法が変わって、最近は、遺書が発見されない限り、自殺とは認定されないようです。遺書のない死亡者は、変死者として扱われる。ネットには、実際の自殺者数は約11万人だという説が掲載されています。いずれにせよ、統計上でも、自殺未遂をした人数は50万人を超えている。1億2千万人の国民がいて、そのうち50万人以上の人々が毎年、自殺を試みている。人類史上、こんな国は現代日本の他には存在しなかったのではないでしょうか。人間が自殺しようとする理由は様々であり、健康上の理由や経済上の理由なども少なくないと思います。それにしても、何故、そんなに多くの人々が死のうとするのか。私にはその理由を説明できません。すなわち、認識できていないのです。

 

人間が持つ根源的な知的欲求としては、“認識する”ということの他に、“文化に参加する”ということもあります。踊りの輪があれば、そこに加わってみたいと思う人もいるでしょう。何か、楽器を演奏したいと思ったり、SNSに記事や写真を投稿したり。私がこのブログをやっているのも、この“文化に参加したい”という欲求に基づくものです。

 

してみると、健康を維持し、経済的に安定し、大切な何かを認識し、文化に参加できれば、自殺者も減るのではないか、などと思ったりする訳です。このことを学者に尋ねてみたいものです。しかし、大半の学者はこう答えるでしょう。

 

「それは私の専門分野ではありません」

 

専門化が進み、総合性が失われつつある。それが問題だ、という説もあるようです。例えば、〇〇心理学というのは、40以上もの種類があるようです。犯罪心理学、児童心理学、社会心理学 等々。科学的に立証し、専門分野に関することをひたすら研究するのが学問であるならば、私は反アカデミズムの側に立ちたいと思います。想像すること。そちらの方が余程、大切ではないでしょうか。

 

ちなみに、文化というのは曖昧でその範囲も広いため、学問の研究対象にはなり得ないと言われています。すなわち、文化そのものを研究の対象とする学問は、存在しません。(文化人類学という学問は存在しますが、これは歴史的な観点を排するというレヴィ=ストロースの発想に毒されており、私はこの立場に反対しています。)私が自らを「文化論者」と名乗っているのは、私が勝手にそう言っているだけで、社会的に通用する呼称ではありません。最近は、「文化の語り部」というのはどうかなあ、などと思っておりますが・・・。

 

ところで、科学的な発見には2種類あって、第1類型は「〇〇となっていることの発見」で、地動説などがこれに当たる。第2類型としては、「何故、そうなっているかの発見」で、万有引力の法則などがこれに当たる。しかし、私が考えている分野においては、更にその先で、「では、どうすれば良いのか」という3番目の類型を措定する必要がある。例えば、投票先が決まらなければ、選挙にも行けない訳です。例えば、自殺する理由について体系的な説明ができたとしても、今、正に自ら命を絶とうとしている人にとっては、何の役にも立ちません。「結局さあ、人生ってのは大変なワケよ~」ということが結論となっている小説があったとしたら、あなたは読みたいと思うでしょうか。

 

このような観点から、先にこのブログに掲載いたしました「文化領域論」について考えますと、文化の領域について以下の5つであると主張したものの、「〇〇となっていることの発見」の域を脱し得なかったように思います。

 

・記号系
・身体系
・想像系
物質系
・競争系

 

上記の分類については、ユングやパースの影響を受けていますが、多分に私のオリジナルな分類で、今から振り返っても、有益だと思えるのです。そこで、これらの文化論を土台としながら、そこに認識論を加味して、第3類型の水準を目指してみたい。そして、この(文化論 + 認識論)を一言で表現し、「文化認識論」というタイトルを考案したものです。実際の内容からすると、固すぎるなあという印象は拭えないのですが、結局、これ以上のタイトルは思いつきませんでした。ブログのタイトルも、近日中に「文化認識論」へと変更する予定です。

 

また、私が書きたいと思う事項は、上記の他に時事に関する事項があります。文化認識論については(その〇〇)という連番を振り、時事に関する事項にはこれを振らず、掲載することに致します。

 

では、宜しくお願い致します。