文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

文化認識論(その4) 信仰の対象とその変遷

アイヌの人々は、カムイは雲の上かどこかに住んでいると考えたようです。そして、本来、カムイは人間と同じような姿形をしていると思っていた。そしてカムイは、人間の世界にやって来る時には、動物に変身する。

 

例えば狩猟において、熊を殺す。するとアイヌは儀式を行い、熊のカムイが元いた世界に戻れるようにする。すなわち、祈りを捧げることによって、熊は死んでもカムイは死なないと考えた。そう考えることによって、熊を殺すという行為から来る罪悪感から救済されたのではないでしょうか。

 

アイヌの人々にとっての熊とは、どういう存在だったのか。時には人間が熊に殺される、ということもあったでしょう。熊狩りがうまく行かなくて、飢餓に苦しむようなこともあったに違いありません。ちょっと極端かも知れませんが、かつてのアイヌの人々は、朝から晩まで熊のことを考えていた。そういう可能性だってある。やはり、かつて(特に冬季)のアイヌの人々の最大の関心事は、熊だった。そして、熊とは何者かという疑問に答えるために、すなわち熊を認識するために、カムイという概念が発明された。

 

これを普遍化して言うと、「動物信仰」ということになります。そして、カムイの存在を証明するためには、物語が必要だった。だから、人々には動物の数だけ物語を作る必要があった。実際、ユーカラの数は無数にあったと言われています。

 

そのようにして動物を認識した人々は、動物以外の自然についても認識したいと願った。そこでアイヌの人々は、海や山、川などの自然にも、その背後にはカムイが存在すると考えた。これが「自然信仰」の起源だと思います。これらの自然を表象する神のような存在を、シベリア地方で生まれたシャーマニズムにおいては、精霊と呼んだ。森の精霊、湖の精霊、という具合に。

 

このような認識のパターンが更に進展すると、「やおろずの神」ということになる。すべての事象には、神が宿るという発想になる。例えば、アイヌ絵本には「飢饉のカムイ」などが登場します。

 

やがて、アイヌの人々も焼き畑農業を始めた。この点は、「アイヌ神謡集」の解説の中で知里真志保氏がそう述べています。農業を始めると、人々にとって土地が重要な意味を持ち始める。すなわち、土地をめぐる他民族との争いが始まる。すると、そのような争いにおいて勇敢な働きをした英雄が登場する。そういう物語が作られる訳です。私たちの祖先には、こういう立派な人がいて、現在の私たちがあるのだ。私たちは立派な民族なのだ、ということになります。つまり、他民族を認識することによって、その反射的効果として、自分たちが一つの民族なんだということを認識する訳です。このパターンを何と呼びましょうか。便宜上、「英雄伝説」としておきましょう。

 

このように自らの民族を意識すると、やはり祖先は偉いということになる。そこで、「祖先崇拝」というアイディアにつながる。

 

概ね、ここら辺のタイミングで、文字が登場する。

 

そして、文字によって旧約聖書が書かれ、そこからユダヤ教キリスト教が誕生する。これらは、「一神教」としておきましょう。

 

また、文字で記述することが可能になると、人間の行動のみならず、人間の発言や思想を記すことが可能となる。そこで、「個人崇拝」というパターンが生じる。こんな偉い人がいて、こんなことを言ったとか、こんな考え方をしていた、という記録が残る。ブッダとか、日本の法然親鸞などが、このパターンだと思います。現代における新興宗教も、このパターンだと思います。

 

では、一覧にしてみましょう。

 

1. 動物信仰
2. 自然信仰
3. やおろずの神
 -農耕、牧畜の開始-
4. 英雄伝説
5. 祖先崇拝
 -文字の発明-
6. 一神教
7. 個人崇拝

 

そして、貨幣が生まれる。純粋な人々の心情から出発した信仰は、やがて権力と結びつき、経済原則に飲み込まれてしまう。そもそも、天国や極楽という概念を措定して、その反対概念としての地獄を説くような宗教が、人々を幸せにできるとは思えません。それは人々を不安にするだけです。厳しい修行を奨励するような宗教も、私は支持しません。一神教も民族間の争いを引き起こします。

 

すると、人々を幸せにする信仰というのは、1の動物信仰と、2の自然信仰ではないか、と思う訳です。例えば、アイヌの伝統文化を守ろうとしている人たちは、現在も沢山おられるのだろうと思いますが、私がYouTubeを見る限り、これらの人々はとても幸せそうな表情をしておられる。アイヌの文化を守る活動を通じて、これらの人々は、アイヌの文化に守られているのではないか。

 

動物信仰と自然信仰、これらはシャーマニズムの核心であると思います。そう言えば、シベリアの女性シャーマン、オレナ・ウータイも幸せそうな顔をしていた。余談になりますが、彼女はYouTube上で、「オレナ・ウータイのJaw Harp講座」というような番組を公開していて、とても楽しそうにJaw Harpの演奏方法を説明しています。見ているだけで、こちらまで幸せな気分になって来るのです。

 

もっと言ってしまいますと、実は、動物信仰や自然信仰には、根源的に人の心を癒す効果がある。私は、そう見ているのです。そのメカニズムを解明できれば、きっと私たちはもっと幸福になれる。残念ながらまだ、私には解明できていないのですが・・・。

 

世界的に見た場合、シャーマニズムに似たような信仰というのは、他にもあります。例えば、アフリカに起源を持つヴードゥーというのがあります。これは宗教の一種として、ヴードゥー教と呼ばれることもありますが、これを普及する組織はない。教義もないようです。つかみどころがない訳ですが、動物の骨などにこだわりを持ち、マイルス・デイビスジミ・ヘンドリックスが支持を表明しています。私の読みとしては、動物信仰、自然信仰の一種ということになります。

 

さて、和人の文化としては、どうでしょうか。和人の文化は、「やおろずの神」を含んでいると言って、多分、異論はないでしょう。では、自然信仰はあったのか。例えば、日本には山岳信仰としての修験道というのがあって、この修行をしている人が山伏と呼ばれた。ご神木などと言って、大木が祀られる。

 

動物信仰は、どうでしょうか。多分、これもあったのだろうと思います。「狐憑き」という言葉がある。多分、何らかの方法を用いてトランス状態に陥った者が、「狐憑き」の状態になり、そして、神の言葉を告げる。これが託宣とか、神託と呼ばれたのではないでしょうか。だとすると、これはかなりシャーマニズムに似ている。

 

このように考えていきますと、日本における動物信仰、自然信仰は、神道との関わりの中で育まれた可能性があるように思います。そう言えば、邪馬台国卑弥呼はシャーマンだったという説もありますね。

 

やはり、どこの地域、どの民族も、いずれかの時点では、動物信仰、自然信仰という精神世界を経験しているのではないでしょうか。