文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その5) シャーマニズムと介在原理

少し、整理をしましょう。

 

AとBという2項対立があって、そこに介在(者)Cが登場する。CによってAとBの対立関係は緩和され、フラットな関係となる。やがてCを通じて、AとBが調和し、融合する。

 

A×B
A-C-B
A= C=B

 

まず私は、このようなパターンをアイヌの民話「和人になった兄」の中に見出したのでした。もう少し大きな枠組みで考えてみますと、同じパターンをアイヌ文化の中に見出すことができる。アイヌは動物や自然に神が宿ると考えている。この神をアイヌの人々は、カムイと呼ぶ。そして、カムイは人間と動物や自然の間を介在している。

 

人間(A)- カムイ(C)- 動物、自然(B)

 

上記のようなパターンをこのブログでは、「物語的思考」と呼んだ訳です。しかし、これは人間の思考領域を超えて、現実世界における現象として、起こり得る。例えば、母親が子守歌を歌って、赤ん坊を寝かしつける、ということがある。これも、赤ん坊が起きている状態(A)と、赤ん坊が寝ている状態(B)の2項対立があって、そこに子守歌(C)が介在し、赤ん坊が眠りにつくという構図を読み取ることができる。そこで誠に恐縮ですが、このようなパターンを今後は「介在原理」と改称することに致します。

 

さて、もう少しアイヌ文化を検討していくと、例えば知里真志保氏の「呪術的仮装舞踊劇」という言葉に行き当たる。ここで、2つの疑問に行き当たった。

 

疑問1・・・アイヌの文化は、シャーマニズムの一種ではないか。
疑問2・・・「呪術的仮装舞踊劇」の中には、文化が持つ全ての要素が含まれているのではないか。

 

とりあえず疑問1の方が簡単なので、こちらを先に片付けておきましょう。(疑問2の方はややこしいので、別途、検討します。)結論から言いますと、アイヌの文化は、シャーマニズムに含まれます。

 

シャーマニズムについては、まず、17世紀の後半にシベリアで発見された。当初、人類学者や民俗学者たちは、シャーマニズムをシベリア地方に固有の文化であると考えた。しかし、フィールドワークを続けると、類似した文化が北東アジア全体に存在することが分かった。更に研究を続けると、地球のほぼ全域で観察されるに至った。誠に恐縮ながら、この点は、このブログの2016年の記事において既に説明されていました。シャーマニズム、シャーマン、トランス等に関する説明は、当時の記事をご参照ください。

 

運命に導かれたシャーマンたち(2016年)
http://ysatoshi.hatenadiary.jp/entry/2016/08/11/203437

 

シャーマニズムの本質が、シャーマンがトランス状態になるということにあるのであれば、現代人にはほとんどそのような傾向が見られません。よって、一応、シャーマニズムは衰退したと言えると思います。しかし、トランスを要件としない「介在原理」は健在だと言えると思うのです。シャーマニズムから、トランスという要件を控除すると、「介在原理」になる。

 

シャーマニズム - トランス = 介在原理

 

近代日本の小説に「どんぐり」という作品があります。恐縮ながら、作者の名前は失念してしまいました。とても短い作品です。まず語り手として、若い夫が登場する。若い妻は不治の病に侵されていて、余命を宣告されている。夫婦は散歩に出る。妻がどんぐりを拾い始める。夫は、「そんなもの拾ったって、仕方がないじゃないか」と妻をたしなめる。妻は「拾って集めるのが楽しいのよ」と応える。たくさん拾い集めたどんぐりを妻は夫に手渡す。こういう話なんです。とても切ない話で心に響くのですが、ちょっと不思議な話だなあと思って、私としては、心に引っ掛かっていたのです。しかし、こう考えることはできないでしょうか。これからも生きて行く夫(A)がいる。死んでいく妻(B)がいる。ここに2項対立がある。どんぐり(C)が二人の間を介在する。この話、実際にそういうことがあったのではないでしょうか。

 

同じような構図が見られる作品に、志賀直哉の「夫婦」という作品があります。当時のことですから、志賀直哉は自他共に認める亭主関白だった。しかし、妻がそのことに異議を述べることはなかった。ある雨の日、夫婦はよそ行きの着物を着て、目上の人を訪ねる。妻は、白い足袋と下駄をはいている。雨で汚れるといけないので、下駄の上からビニールのカバーを掛けている。訪問先に到着すると、妻は泥で汚れたビニール・カバーを下駄からはずすと、躊躇することなく、志賀直哉の着物の袖の中に押し込んだ。それに対して、怒っていない自分がいた、と志賀直哉は述べています。亭主関白の夫(A)と、多分不満を持っているであろう妻(B)という2項対立があって、下駄のビニール・カバー(C)が夫婦の間を介在し、調和がもたらされるという構図にある。こちらも、ちょっと作家の創作とは思いづらい。

 

上記の小説2例において、介在する(C)は、どんぐりと下駄の雨カバーという“物”だった訳ですが、これが人間になるともう少し、複雑になります。フーテンの寅さんを例に考えてみましょう。「寅次郎の縁談」という作品があります。まず、さくら(賠償千恵子)の息子である満男の就職活動が難航する。満男は「もう就職活動なんて止めたい」と言う。これに対して、父親の博は、「大学まで出ているのに」と言って、満男を非難する。満男は「本当は大学なんて行きたくなかったんだ」と言って抵抗する。怒った博は、満男を殴る。満男が家出する。大体、こういう設定で物語がスタートします。明らかに父親と息子の2項対立が成立しています。そこへ、寅さんが旅から戻ってくる。そして寅さんは、瀬戸内の小島へ満男を迎えに行く。ここから先はお決まりのパターンで、寅さんが恋をして、その恋は破れる。そんな寅さんに触発され、満男は自宅へ戻る決意をし、父親である博と和解する。

 

すなわち、父親である博(A)と息子である満男(B)の間に2項対立があって、介在者としての寅さん(C)が登場し、親子間の和解が成立する、という関係にあります。但し、“物”の場合と違って、人間が介在者(C)となる場合には、条件があると思うのです。誰もが介在者になれる訳ではない。

 

寅さんの場合は、次の2つの世界を行き来している。

 

貧乏ではないが、しがらみに捕らわれている世界・・・寅屋(だんご屋)の世界
貧乏だが、しがらみのない世界・・・テキヤの世界

 

寅さんは架空の人物ではありますが、人生における多大な困難を経験しシャーマンとなった東北地方のゴミソと似ています。ドラマの設定上、寅さんは若い頃に家出をして、20年間、家に帰らなかった。これだけでも大変な苦労だと思いますが、しかし寅さんは、結局、実家の団子屋に帰ったんですね。何故、帰ったのか。そこには、寅さんという人間において、「人格の変容」があったのだろうと思う訳です。

 

この「人格の変容」という言葉は、放送大学で「人格心理学」を担当していた大山泰宏氏の言葉です。大山氏は、概ね、次のように述べています。

 

教養文学と呼ばれる小説のジャンルがある。教養と言っても、特にインテリジェンスを追求するものではない。また、サクセスストーリーでもない。ある登場人物が、自分が望んだ訳ではなく、厳しい環境なり出来事に直面する。その人物は、自らの人格を変容させることによって、困難を克服する。但し、その人物は、小説の結末において、特段、金持ちになったり、社会的な名声を得たりする訳ではない。日本では、「次郎物語」などがこれに当たる。

 

この話には、説得力があると思います。過酷な運命に導かれ、困難を克服するために自らの人格を変容させた者。そういう人だけが、古代においてはシャーマンとなり、現代においては「介在者」になり得るのではないか。