文化認識論

(世界を記述する。Since Oct. 2019)

文化認識論(その7) 介在原理と記号分解

かつて、アイヌの人々が行っていたであろう可能性が指摘されている呪術的仮装舞踊劇。これはアイヌのみならず、シャーマニズムの世界において、広く、実施されていたに違いないと思います。参考動画を以下に添付します。この動画の素性はよく分かりませんが、女性ボーカリストが頭に付けているのは、トナカイ又は鹿の骨のように見えます。だとすれば、このパフォーマンスはシベリア地方のシャーマニズムにルーツを持つものだと思われます。途中で男性が骨を地べたに落とすシーンがありますが、これは占いをしているのではないでしょうか。神秘的な照明など現代的にアレンジはされていますが、イメージとしては呪術的仮装舞踊劇に近い。

 

Heilung / Lifa
https://www.youtube.com/watch?v=iJvcN41H3Is

 

この呪術的仮装舞踊劇には、現代の文化へとつながる様々な要素が詰め込まれていると思います。音楽、美術、文学などの芸術。その萌芽が、ここにある。また、全体から見れば、これは後世の儀式、祭り、更にはその後の政治につながる。

 

呪術的仮装舞踊劇の要素を、私の文化領域論に照合してみます。

 

呪術・・・物質系
仮装・・・身体系
舞踊・・・身体系
劇・・・・想像系

 

記号系は、全ての文化領域の基底をなすものなので、これを除外してみますと、呪術的仮装舞踊劇の中には、競争系のみが欠落していることが分かります。かつてのアイヌの人々は、競わなかった。争わなかったに違いないと思うのです。

 

多くの民族がいずれかのタイミングで、シャーマニズムを作り上げていた。我々、和人にだって、シャーマニズムの歴史がある。シャーマニズムは、介在原理に基づいており、そこには調和があり、文化は総合されていた。経済的には原始共産制で、人々は平和に、そして幸福に暮らしていたに違いない。人々は同じ食物を食べ、同じ酒を飲み、同じ服を着ていた。それで、満足だった。あらゆる文化を共有する、文化共同体とでも呼ぶべき人間の集団があって、そこでは自殺する者など、皆無だったに違いない。

 

では、そんなシャーマニズムは、どのように変容して行ったのでしょうか。

 

それは人々が自ら作り出した記号によって、文化の母体とも言うべき呪術的仮装舞踊劇を解体していったのだろうと思うのです。

 

まず、人間は文字という決定的な記号を発明した。これによって、人々は少なくとも2つの階層に分断された。すなわち、読み書きのできる人と、そうでない人。そもそもユーカラなど、口頭によって伝承された物語は、語り手の気分次第で、いかようにも脚色することが可能だった。実際ユーカラの中には、同じ話でも結末だけ異なるものがあります。すなわち、ユーカラを謡う、語る際には、想像力が要求されたに違いありません。しかし、文字による書物が普及すると、そのような語る側の想像力は要求されなくなった。

 

文字によって書かれた書物などは、時間と空間を超えて、普及するようになった。従って、書物に接する層の人々にとっては、情報の量が飛躍的に増大した。そして、長い間存続する書物は、人々の思考を硬直化させたのではないか。あのりっぱな本にこう書いてある。そういう発想が、アカデミズムの弊害をもたらしたに違いないと思います。

 

文字というのは、とても便利な記号です。現に私だって、今、文字を使って原稿を書いています。しかし、言葉や文字の限界にも注意を払うべきだと思うのです。例えば、動物の美しさや大自然雄大さなど、言葉や文字によって伝えることは、困難だと言わざるを得ません。

 

次に人間は、十進法と数字というものを発明した。最早、現代人は数字なくして日々の生活を送ることは困難だと思います。人の集団を見れば、何人だと認識する。チョコレートを食べれば、あと何粒残っているとか、意識する訳です。

 

やがて、人間は音符によって構成される楽譜というものを発明する。ある任意の音程の音を“ド”として、その1オクターブ上の“ド”を探し当てる。そして、2つのドの間を適当に分割して、音階が出来上がる。ピアノなどは、この音階を正確に奏でる楽器だと思います。そして、ここでも人々は2種類に分断されることになる。すなわち、楽譜の読める人とそうでない人。楽譜の読める人は、そのことを誇らしく思っているでしょう。そのことに、異議はありません。しかし、楽譜通りの演奏には、かつてアイヌの人々がユーカラを謡っていた時のような臨場感は感じられない。音楽とは、人々の暮らしと共にあるべきものです。それが、一部のエリートにとっては、大学で学ぶものになってしまった。

 

本当のことを言えば、ドとレの間にも、無数の音程の音が存在します。例えば、ギターの調弦をしてみればよく分かります。音程というのは、区分なくつながっているのです。そして、動物の鳴き声や自然の音というのは、そのような連続性を持っている。また、音には音色という要素もあって、楽譜にそれを記すことはできません。あのムックリの不思議な音色を正確に楽譜に書き写すことなんて、できないのです。

 

例えば、天に突き刺すような馬のいななき。言語学者にこれを言葉で表現してみろ、と言ってみたいものだと思うのです。ヒヒーンですか? いいえ、馬はそのように鳴きません。音楽家には、楽譜にしてみろと言ってみたい。無理でしょう。しかし、オレナ・ウータイであれば、直ちにそれを再現してみせることができる!

 

ここら辺に、記号の限界がある。動物や自然というのは、人間が記号で表すことができる程、単純ではないのです。記号というのは、あくまでも人間にとって都合が良いように、動物や自然の中から要素を切り取って、表現しているだけなのです。

 

更に人間は、貨幣という厄介な記号を発明した。これによって、市場経済が生まれる。人間は富を蓄えることが可能となり、必然的に貧富の差が生まれる。そういうシステムが行き詰っていることは、明白だと思います。れいわ新選組、大西つねき氏の動画などを見れば、すぐに分かります。

 

このような話は、その後も写真、動画、電子信号などへと続きます。例えば、最近は交通事故の動画などが出回っていて、こういうものは裁判の証拠としては有効かも知れませんが、本当のことを言えば、大したことは分からないのです。その時、加害者がどういう健康状態にあったかとか、被害者がどのような痛みを感じたか、ということは動画にも表現されません。

 

かつては、文化なり人間の社会は進歩する、という考え方があった。しかし、いつまでたっても良くならない。実は、進歩しなのではないかという考え方が主流になった。そこで、文化というのは、ダーウィンが提唱した進化と同じように、突然変異と自然淘汰によって説明できるのではないか、という説が出てきた。これが「文化進化論」と呼ばれるものです。確かに、コンビニの棚に並ぶ商品などを例にとって考えますと、これは当たっている側面もある。しかし、本質的に言えば、そうではない。

 

かつて、シャーマニズムにおいては、融和的で、総合的な文化があった。その文化を支えていた原理は、介在原理だと思うのです。そして、以後、人間は記号によって、その文化を切り刻み、解体して来たのだと思います。この原理のことを“記号分解”と呼ぶことにしましょう。もちろん、人間は記号を通じてしか、物事を認識することができません。だから、記号を生み出して来た。その記号が、私たちの文化を切り刻んできたとすれば、なんという皮肉でしょうか。