文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その8) 認識方法の変遷

思えば、文字を持たない文化なり信仰においては、どうすべきか、どうあるべきか、ということに関する主張、すなわち教義は存在しないのではないでしょうか。シャーマニズムやアフリカのヴードゥー、日本古来の神道修験道も同じだと思います。教義というのは、これらの信仰者たちにとっては、興味の対象外だった。彼らの関心は、ひたすら動物や自然に同化していくことだったのだろうと思います。

 

文字が発明されると、いくつかのムーブメントが起こる。口頭で伝承されて来た神話や民話を文字にして、記録しようとする。これが、後の文学につながる。聖書が作られる。しかし、旧約聖書が書かれるずっと以前に、法律ができていたようです。古くはハンムラビ法典というのがあります。目には目を、っていう奴ですね。しかし、これが現代の法律につながっている訳ではない。紀元前8世紀頃にローマ法と呼ばれるものが生まれ、こちらが今日の法律に影響を及ぼしている。すなわち、文字が宗教上の教義や法律を生んだのだろうということです。

 

ところで、人間の歴史、文化の歴史というのは、“認識”の歴史でもあると思うのです。例えば、山中で道に迷った。道が左右に分かれている。どちらへ進めば帰路につけるか、正しく認識していさえすれば、人間は正しい行動を取るはずです。人間は、常に何らかの願望を持っていて、その願望を叶えるために現実と直面している訳ですが、あらゆる場面で物事を正しく認識できていれば、その願望を実現するために適切な選択をすることが可能なはずです。行動や判断の前に認識がある。よって、認識が文化の本質ではないかと思う訳です。

 

そこで、このブログでは「認識するとはどういうことか」、種々検討してきた訳ですが、まとめてみたいと思います。歴史的な時間の流れに従って、列挙してみましょう。

 

1. 真似る
2. 融即律
3. 介在原理
4. 物語的思考
5. 論理的思考
6. 記号分解

 

個々の項目については既に述べておりますが、そのポイントを新たな視点を含めて、以下に述べてみることにします。

 

1. 真似る


人間は、自分が嫌悪している物事や、自分が侮蔑している対象の真似をすることはありません。やはり、真似るからにはその対象に対する憧れや、尊敬の気持ちがある。従って古代の人々は、自分たちが好意を持っている対象の真似をしたはずです。まず、動物の鳴き声や動きを観察する。そして、自らの身体を使って、その真似をする。

 

また、このブログでは人間が五感で感じる全ての信号を記号であると定義してきましたが、人間が作り出す記号を“人工記号”とし、自然界に由来する記号を“自然記号”として、区別する必要があるように思います。すなわち、動物の鳴き声というのは自然記号で、それは人工記号である言語や楽譜によって、表現することができない。しかし、例えばオレナ・ウータイは馬のいななきを物の見事に再現している。してみると、動物の真似をするということは、人工記号に依拠しない行為だと言えます。

 

昔、ソシュールという言語学者が、話し言葉を分解していくと最後は“音素”という構成要素に辿り着くと言いました。そしてこの音素は、言語によって使われる範囲が異なるということです。例えば、日本人には英語のアールとエルの区別がつきにくい。これは日本語にそのような音素が使われていないからなんです。フランス人は「ハヒフヘホ」が苦手だという話を聞いたこともあります。

 

動物の鳴き声には往々にして、我々が使用している言語には含まれない音素が使われている。だから、言語感覚に基づいていては、動物の鳴き声を真似ることが困難なのです。

 

すなわち真似るという行為は、対象をよく観察し、人工記号に依拠することなく、人間がその身体を使用して、人間が憧れる対象との関係性を構築し、認識する、ということだと思います。これは最も古い、基本的な認識方法ではないでしょうか。この真似るという行為は、多分、言語の発生よりも古い。むしろ、この真似るという行為、認識方法が、言語を生んだのではないかとさえ、思われます。(例えば、赤ちゃん言葉では、犬をワンワンと呼ぶなど。)

 

2.融即律


この言葉は、歴史主義的文化人類学者のレヴィ・ブリュルという人が作ったそうです。その意味は、「別個のものを同一化して結合してしまう心性の原理」であるといわれます。(参考:Wikipedia)「我々の祖先はバナナである」と述べたバナナ村長の話は、このブログでは繰り返し述べてきました。ところが、最近、河合隼雄氏が北米のインディアンを訪ねるという番組を見ておりましたら、インディアンの部族の中には「自分たちの祖先はトウモロコシである」と考えている部族のいることが紹介されていました。バナナ村長は、村民に対しバナナを食べることを禁じましたが、こちらのモロコシ村長のいる部族では、トウモロコシをほとんど主食のように食べているそうです。この話になると、どうも私は冗談めかしてしまうのですが、当のご本人たちにしてみれば、バナナなりトウモロコシに強烈な思い入れがあったのではないか。なんとか、自分たちと関連づけて認識したい。しかし、バナナもトウモロコシも植物なので、動かない。真似をすることができない。そこで、自分たちの祖先であると位置づけることによって、関係性を構築し、認識しているのではないか。すなわち、自分たちにとって、重要な意味を持つ何かに対し、想像力を働かせて関係性を構築することによって、認識する。これが融即律だと思われます。融即律も想像力に依拠するもので、人工記号には依存しません。

 

3. 介在原理


シャーマニズムについて検討していくと、様々な場面で介在者、介在物が登場する。例えば部落の人々がいて、その代表者がシャーマンである。シャーマンは精霊やカムイに祈りを捧げる。精霊やカムイは動物や自然を代理している。

 

部落の人々 - シャーマン - 精霊・カムイ - 動物・自然

 

この場合、シャーマンは部落の人々と精霊・カムイを介在し、精霊・カムイはシャーマンと動物・自然の間を介在する。

 

Jaw Harpは、人間と自然の間を介在し、子守歌は赤ん坊の覚醒している状態と睡眠状態を介在する。

 

介在者、介在物を通じて、対象と同化するのが介在原理であって、ここでは人工記号の一種である言葉が役割を果たすことになります。但し、文字はまだ登場しない。

 

4.物語的思考


アイヌの物語にこういうのがあります。若い嫁が熊に襲われる。これは悪い熊のカムイの仕業だと思われる。そこで、儀式を行い、他のカムイたちに働きかけ、悪いカムイに制裁を加えてもらう。悪いカムイは反省する。ここには、カムイという概念が登場する。そして、出来事の因果関係が語られる。この想像力に支えられた「概念+因果関係」というのが、物語的思考の基本的な構造だと思われます。口頭で伝承された物語なので、言葉は登場しますが、まだ、文字は登場しない。

 

5.論理的思考


A=B C=B よってA=C。論理的にこのような証明を行うのが演繹だと思いますが、現実の世界で、このような事例はほとんど起こりえない。要は、AもBもCも同じだと言っている訳で、そんなことは考えないでも分かる。

 

次に、数ある鳥の中で白鳥という鳥を抽出する。例えば、100羽の白鳥を観察し、全て白いことを確認した。よって、白鳥は白いと結論づける。これが帰納ですが、これも当たり前で、そんなことは見れば分かる。(この例では、オーストラリア大陸において黒い白鳥、すなわちブラック・スワンが発見されたそうです。)

 

それよりも、現実社会において頻繁に採用される論理的思考方法というのは、パースが提唱したアブダクションだと思います。まず、驚くべき事実がある。ある仮説を立てて、その仮説が正しいとすれば、その驚くべき事実を説明できる場合、その仮説は正しいこととなる。私の思考方法というのも、大半はこれだと思います。ところが、このアブダクションには、仮説を立てるための想像力というものが必要になる。その点、科学的ではないという批判があるかも知れません。しかし、人間の認識能力には限度がある訳で、仮説を立てずして、立証できることなど、むしろそちらの方が少ないのではないか。

 

論理的思考の代表例として、法律というものがあります。以下に日本の民法709条を引用します。

 

「故意または過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」

 

法律を作る人というのは、まず、人間の社会を観察している。そして、具体的に発生した事例を分析し、そこから例えば故意だとか過失という概念を抽出する。そして、因果関係を認定し、判断を下す訳です。この条文の中に、人間の想像力が介在する余地はありません。しかし、現実に発生する事例というのは千差万別であって、上記の条文だけで判断できるケースというのは、少ない訳です。そこで、裁判になる。すると裁判官が原告、被告双方の言い分を聞いて、最後は裁判官の持った印象で判決を下す訳です。これを自由心象主義と言いますが、結局、最後は裁判官の、人間の想像力に依拠している訳です。

 

この論理的思考は、文字に支えられています。人間社会をよく観察し、そこから概念を抽出し、因果関係を認定する。但し、基底には人間の想像力がある。

 

長い間、私はこの“論理的思考”が人類の到達した最上位にある認識方法だと思って来ました。しかし、どうも現実社会はそうなっていない。例えば、哲学の最高峰とも言われたヘーゲルは、「フランス革命によって理想的な国家が誕生する」と考えていたようですが、現実にはそうならなかった。また、その後、マルクス共産主義を唱えましたが、その欠陥も指摘されるようになった。マルクス主義の正しかった点と誤りだった点については、近年、経済学者の松尾匡氏が著書の中で詳細に説明しています。

 

そもそも日本において論理的思考が支配的だった時代というのは、存在しなかったと思われますが、世界的に見た場合、上記のヘーゲルマルクスの敗北が大きかったのではないでしょうか。

 

また、立憲主義や民主主義ということを考えますと、人権という概念に行き着く。更に理由を考えますと、平等という概念に帰着します。人間には何故、人権があるのか。それは、皆、平等だからだ、という訳です。しかし、では何故平等なのかということを考えた場合、人間の反対概念としての神を措定して、「神の下に平等」だということになる。では、キリスト教的な創造主としての神を措定しない場合、何故、人間は平等であるべきなのか、その点を説明できるでしょうか。このようなことを考えますと、“論理的思考”にも限界があるように感じるのです。

 

6.記号分解


これも私の造語ですが、つまるところ、人々はひたすら記号を作り、物事を分解して認識しようとする時代になったということです。

 

かつて、アイヌの人々が営んでいたであろう呪術的仮装舞踊劇。この呪術的な要素は、医学、物理学、化学などに分解されていった。かつてアイヌの人々が着ていた民族衣装には、美しい紋様が描かれていた訳ですが、そのような衣装を着るということは、着ている人がアイヌ民族であるということを意味していた。一方、私がユニクロで買ったシャツには、ストライプの模様があったりする。しかし、このストライプには何の意味もない訳です。現代人が着る衣装には、それを着ている人の性別だとか、お店の店員さんのユニフォームだとか、その程度の意味しかない。アイヌの人々の踊りというのは、それが鶴を意味していたりする訳ですが、現代の踊りにはほとんど意味がない。せいぜいがセックスアピール程度のことだと思います。音楽にしても、アイヌの人々にとってのユーカラは、彼らの認識と直結する意味を持っていた訳ですが、現代の音楽には意味がない。そればかりか、記号によってジャンル分けが進み、結局のところ人々の暮らしから、音楽は遠ざかってしまった。“劇”という要素にはストーリーが含まれますが、これは文学的な意味合いを持っている。しかし、文学の世界もポストモダンなどと言って、結局は空っぽになってしまった。

 

スポーツ大会が花盛りですが、これも記号によってAチームとBチームが戦って、勝敗を決める。それだけのことで、私たちの認識に貢献することなど、何もないのです。そこには、想像力さえ要求されない。

 

オリンピックにおいては、選手が競った結果を金銀銅という記号によって評価する。それだけのことですが、厄介なのは背後に政治と利権が絡むことです。

 

自然科学のみならず、私たちの文化さえもが記号によって分解され、総合的な事柄、本質的な意味が何なのか、誰にも分からなくなってしまった。学者たちは自らの専門分野、これをタコツボと言いますが、そこに潜り込んで外に出てこなくなった。タコツボ学者は、「それは私の専門外だ」と言い、セクシーな環境大臣は福島の汚染水問題を「所管外だ」と述べる。現代人は、認識しようとして記号化を進め、結果として、何も認識できなくなってしまった。

 

この記号分解という世界において要求されるのは、記憶力と人工記号だけだと思います。

 

では、各項目とその構成要素を一覧にしてみます。

 

1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

上の一覧をじっと見ておりますと、何か、感じませんか? 私たち現代人が失ったもの、それは想像力と関係性ではないでしょうか。