文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その10) “序列依存”という心の貧困

<認識方法の変遷>
1. 真似る・・・観察、関係性、自然記号
2. 融即律・・・想像力、関係性
3. 介在原理・・・想像力、概念、関係性
4. 物語的思考・・・想像力、概念、因果関係、話し言葉
5. 論理的思考・・・観察、想像力、概念、因果関係、文字
6. 記号分解・・・記憶力、人工記号

 

古い書物の代表例として、聖書があります。聖書において、天地を創造した神という概念が作られた。そして、神に仕える聖職者が生まれる。聖職者は、より神に近い者の序列が上、ということになる。このような考え方に異議を申し立てたのが、マルティン・ルターだった。

 

中世のヨーロッパにおいては、軍事力と経済力を持つ王様が権力を持っていた。しかし、本当は同じ人間なのに何故、王様は偉いのか、という問題が生じた。そこで、王様の権利は神が授けたものだという「王権神授説」が誕生する。これを真っ向から否定したのが、ジョン・ロックだった。

 

仏教の源流であるヒンドゥー教において、カースト制が生まれ、人間はその職業によって序列が分けられた。現在、インドの法律でこれは禁止されていますが、実社会においては、根強く残っている。このカースト制を正当化するために、輪廻転生という考え方が採用された。すなわち、現世におけるカーストを全うした者は、来世において、より上位のカーストに生まれ変わることができる。これが輪廻転生という考え方が生まれた起源だと言われています。その結果、インドにおいては圧倒的な序列社会が今日まで続いている訳で、これがレイプなどの犯罪を助長している訳です。

 

日本の士農工商も同じですね。

 

ところで、一昨日(10月28日)、“れいわ新選組”の山本太郎さんの大分における街頭記者会見において、ちょっとした事件が起こりました。まず、素性不明のおじさんが登場する。このおじさん、太郎さんに対し、イチャモンを付け始めるんですね。太郎さんに対し、偽善者、所詮はタレント、大学教授でもないくせにこんなところで何をやっている。概ね、そんな言葉を吐いて、最後はマイクを地面に叩き付け、立ち去った。

 

対する太郎さんは、「さっきの人だって、本当は裕福じゃないやん。裕福じゃない者同士、なんで石を投げあわなきゃならないの」 と言って号泣してしまった。本当は貧しい者同士、弱い者同士だからこそ、連帯すべきだ。本当は、そんなおじさんにこそ、太郎さんは分かって欲しかったに違いありません。

 

ツイッター上では様々な情報や意見が飛び交っています。その場にいた人の話によると、このおじさん、最後はスタッフの人に謝って、その場を立ち去ったそうです。やり場のない憤りを感じていて、それを太郎さんにぶつけてしまったのではないか、という同情の声も聞かれます。

 

山本太郎 偽善者と呼ばれて」 れいわ新選組 大分
https://www.youtube.com/watch?v=pQw8_gmK_C4

 

弱者が弱者を叩く。貧者が貧者を批判する。何故、こういうことが起こるのか。私には、思い当たる節があるのです。

 

まず、時の権力者は、市民に対し何かを諦めさせようとする。それはもう無数の方法や理屈がある。先に述べたカースト制と輪廻転生などは典型だと思いますが、その他にも性別、家柄、貧富など、市民を諦めさせる屁理屈というのは、無数にある。最近では、シングル・マザーだとか、生産性ということまで言われている。

 

序列の典型的な例で、学歴があります。大企業ですと、高卒だとなかなか管理職にはなれない。高卒の人は、自分は高卒だから管理職になれないのだ、という諦めが生じます。これは同時に、自分にとってのイクスキューズ(言い訳)にもなる。自分は頑張っているし実力もあるが、高卒だから出世できないのだ、それは仕方のないことだ、と認識する。序列以外の認識方法を持っている人であれば、例えば芸術に夢中になっているとか、論理的な思考のできる人であれば、事情が変わってくる可能性がある。しかし、それらの認識方法を持っていなければ、これはもう序列に頼って認識する以外にない。これが“序列依存”だと思う訳です。

 

しかし、このイクスキューズが効かなくなる場合がある。例えば、太郎さんは高校中退なので、一応、中卒ということになる。序列依存に陥っている高卒の人からしてみると、これは面白くない。自分は高卒で、甘んじて厳しい現実を受け入れている。それはやむを得ないことだ、と考えている。しかし、中卒の太郎さんは落選中とは言え最近まで国会議員で、街頭記者会見を開けば沢山の人々が集まる。スポットライトを浴びて、マクロ経済について熱弁を振るう。中卒の太郎さんにそういうことができるのであれば、高卒の自分にだってできる可能性があることになる。自分は高卒だから仕方がないんだ、というイクスキューズが成り立たなくなる。これは面白くない、という心理になる。

 

ポイントをまとめてみましょう。まず、時の権力者が、一般の市民に屁理屈をこねて何かを諦めさせようとする。それによって、市民は何かを諦める。と同時に、その諦めが自分にとってのイクスキューズになる。このイクスキューズが否定された場合、その市民は激怒する。こういうパターンだと思います。

 

私がこういうことを考えるに至ったのには、いくつかきっかけがありました。

 

行きつけと言える程、通った訳ではありませんが、ある漁師町に寿司屋がある。そこの大将は、高校を卒業すると同時に、東京の寿司屋へ修行に出た。昔のことなので、それは厳しい修行だったに違いありません。店の掃除やシャリの焚き方とか、そういう作業から始めたものと思われます。2~3年もそんな作業を繰り返した後、やっと親方が少しずつ寿司の握り方を教えてくれる。大将の修行は、5年程続いた。やっと親方のお許しが出て、暖簾分けに至る。大将は故郷の漁師町に戻り、寿司屋を開業した。同じ漁師町で育った女性と結婚し、早くも50年が過ぎた。

 

その寿司屋のカウンターに座っておりますと、ある日、大将が激怒したという話を女将さんから聞いたのです。どういうことかと言うと、最近、寿司職人を養成する学校が出来たらしい。そこでは3か月程度、みっちりと技術を教わる。そして、その寿司職人養成学校の卒業生がやっている寿司店が、ミシュランガイドに掲載されたというのです。これは、大将が怒るのも無理はない。

 

ちなみにこの大将、山本太郎さんが大嫌いなのだそうです。私は、重ねて2度、その理由を尋ねましたが、大将はその理由を答えてはくれませんでした。

 

そう言えば、こんな話もあります。私は学卒で、幸い学歴コンプレックスとは無縁に過ごしていました。やがて、私の元勤務先会社は業績が振るわず、外資に買収されたのです。外資系となると、どうも出世していくのは院卒なんですね。大体、4年制の大学を出た後にアメリカの大学院へ2年程留学する。そういう暗黙のルールがある。そこで私がコンプレックスを感じたかと言うと、そんなことは全くなかった。長い間、私はマイルス・デイビスジミ・ヘンドリックスゴッホを尊敬してきた訳です。マイルスやジミ・ヘンに比べれば、アメリカの大学院を卒業していようが、そんなものは何でもない。

 

共産主義者であれば、時の権力者に何を言われても諦めるな、と言うかも知れない。しかし、ある程度の諦めは、止むを得ないのではないかと思います。私も、多くの夢や希望を諦めてきました。しかし、序列に依存するというのは、いかにも寂しい。そうならないためには、心を豊かにしておく必要がある。そして、心を豊かに保つには芸術と言いますか、冒頭の一覧に記しました1番から4番までの認識方法、これを習得しておいた方が良いと思うのです。