文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その17) 構造主義、ポスト構造主義、ポストモダン(その1)

ご案内の通り、このブログでは様々な文化について述べてきたわけですが、「文化学」という学問は存在しない。このことは、ある側面で言えば、私にイクスキューズを与えて来た。すなわち、仮に私が間違ったことを述べたとしても、それを批判する理論も学者もいないのです。これは気楽にやって行けると思っていたのですが、ここに来て、書籍のタイトルに「文化」の2文字を付した本が、出版されている。先日購入した「文化とは何か」という本を含めて、初版の出版年順に並べてみます。

 

文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006

文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016

文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019

 

このことは、単なる偶然か、それとも何かを意味しているのでしょうか? 「文化とは何か」について、私はまだ読了していませんが、訳者あとがきのこんな一文が、妙に気になったのです。

 

- (前略)本書は直接的には用をなさない本であろうが、(中略)いま自分がどこに位置しているかについて、本書はこのうえなく的確に教えてくれるだろう -

 

確かに、私が読み進めた範囲においても「私がどこにいるのか」、示唆に富んだ記述が多く見受けられたのです。そして、既読の他の文献の記述をも総合すれば、現代において文化について語ることの意味を考えることができるのではないか、と思うに至ったのです。そのためには、駆け足で思想の歴史を振り返ることになります。

 

まず、「啓蒙思想」と呼ばれる潮流があった。これは主にイギリス人とフランス人が巻き起こした思想だった。主な思想家は、次の通り。

 

・トマス・ホッブズ(イギリス)
ジョン・ロック(イギリス)
・ルソー(フランス)

 

ホッブズとロックについては、このブログの「憲法の声」というシリーズ原稿において、記述した通りです。日本国憲法の起源については、上記の3人を読めば分かります。)

 

次に、「ドイツ観念論」というのが出て来る。代表的な思想家は、カントとヘーゲルです。カントの代表作である純粋理性批判は、膨大で、大変難解な文献ですが、これを手短にまとめている記述がありましたので、以下に抜粋します。(文献4)

 

- 問題は、認識を個々人が行うところにある。私の認識は私のもの、あなたの認識はあなたのもの、でしかない。だから、真理は一つなのだが、それを認識しようとしたとたんに、めいめいが勝手な真理の「像」を描いてしまうことになる。しかもそれは、避けられないことなのだ。
 では、まったくどうしようもないかというと、そうでもない。というのは、人間には生まれついての認識の枠組み(先験的カテゴリー)というものがあって、それがみんなに共通しているからだ。空間や時間がそうなのだが、よい例がユークリッド幾何学である。誰だって、三平方の定理は正しいと思うだろう。(中略)だから、みんなの認識を持ち寄って議論すれば、その結論は、当たらずとも遠からず、ぐらいの線はいくはずである。 -

 

これは卓越した要約だと思います。今更ながら、納得してしまいます。

 

ヘーゲルについては、その主張の骨子を表わす要約というのは、見つかりませんでした。「歴史の進行は理性の本性に則って必然的な方向をもつ、といった決定論的な歴史観」(文献5)とだけ述べておきましょう。ただ、ヘーゲル支持者の側からは、この点についても誤解であるとの主張があるようです。いずれにせよ、後年ヘーゲルマルクスキルケゴールニーチェなどから批判されたようです。そして、後述するポスト構造主義者たちからも批判されることになります。

 

啓蒙思想ドイツ観念論ヘーゲルまでを「近代思想」と呼んで良いと思います。近代思想は、キリスト教の影響を受けつつ、そこからの段階的な脱却を目指していたところに特徴があるように思います。また、真理というのは一つだけあって、人間の理性の力を信頼しようという雰囲気もあったように思います。

 

そして、レヴィ=ストロースが登場し、構造主義としての現代思想が幕を開ける。レヴィ=ストロースについてはこのブログで繰り返し述べて来ましたので、ここでは構造主義の「構造」とは何か、という点に絞って記載します。レヴィ=ストロースが主張した「構造」について、文献4は数学や遠近法との関連を述べた上で、次のように解説しています。

 

- 視点が移動すると、図形は別な形に変化する(射影変換される)。そのときでも変化しない性質(射影変換に関して不変な性質)を、その図形の一群に共通する「骨組み」のようなものといういみで、<構造>とよぶ。<構造>と変換とは、いつでも、裏腹の関係にある。<構造>は、それらの図形の「本質」みたいなものだ。が、<構造>だけでできている図形など、どこにもない。<構造>は眼に視えない。その意味で、抽象的なものだ。-

 

例えば、円錐形の物体があったとします。これを真上から見れば、円に見える。真横から見れば、三角形に見える。そして、そのどちらの認識も正しい。すなわち、真実は一つではないことになる。近代思想がニュートン力学に対応していたとすると、現代思想アインシュタイン相対性理論に対応すると言えるかも知れません。文献4には、次のような記載もあります。

 

- 公理を自明のものと考えれば、証明や論証の結果は“真理”にみえる。しかし、そうみえるのは、ある知のシステムに閉じ込められているくせに、そのことに気付かず、それを当たり前と思っているからじゃないか。-こういう反省がおこってきて、当然なのだ。
 こういう反省は、数学や自然科学の内部にとどまらず、当然、社会科学や思想全般にも波及していく。ヨーロッパの知のシステムは、“真理”を手にしていたつもりで、実は“制度”のうえに安住していただけではないか。こんな疑問を、もっとも深刻なかたちでつきつけることになるのが、ほかならぬ構造主義だ。-

 

レヴィ=ストロースが残した最大の仕事は、神話の研究だった。そして、彼は上に述べた「構造」という考え方から神話を研究したのです。一つの神話を取り上げるのではなく、似たような神話をかき集める。そしてその神話群において、変化する要素と、固定されている要素を分けて分析し、その神話群における構造を明らかにした、と言われています。レヴィ=ストロースは、その結果、未開の部族の認識がヨーロッパ人のそれに劣らぬ構造を持っていると主張したのです。こうして、ヨーロッパ中心主義や植民地主義を批判した訳です。

 

こうなってくると、勢い、「未開の部族」や「原始主義」に対する憧れのようなものが生ずる。文献1は、次のように述べています。

 

- エキゾチック趣味は二十世紀にモダニズムのなかの原始主義的傾向というかたちで再浮上する。この原始主義は近代の文化人類学の成長と手をたずさえてきた。-

 

そう言われると、文化人類学から始めて、古代の文化を礼賛してきた私のような立場は、そうなのかも知れないと思ったりする訳です。

 

この話、まだ続きます。


(参考文献)
文献1: 文化とは何か/テリー・イーグルトン/松柏社/2006
文献2: 文化進化論/アレックス・メスーディ/NTT出版/2016
文献3: 文化的進化論/ロナルド・イングルハート/勁草書房/2019
文献4: はじめての構造主義橋爪大三郎講談社現代新書/1988
文献5: はじめての哲学史竹田青嗣 西研(編)/有斐閣アルマ/