文化認識論

(世界を記述する。Since July 2016)

文化認識論(その22) 私たちに許された自由

コロナウイルスが引き起こしている新型肺炎についてですが、これは行き過ぎたグローバリズムに対する警告として、受け止めるべきではないでしょうか。あまりに多くの人々が国境を超えて移動するから、ウイルスが世界中に拡散する。そのうち収まるだろうと言う人もおられるでしょうが、既に、人が死んでいる。死んでしまった人にとって、これは取り返しのつかない災厄だと言う他はありません。エイズウイルスや、SARSもそうだった。現在アメリカではインフルエンザで1万2千人を超える人々が亡くなったという情報もあります。国境を超える人々の移動には、大きなリスクが伴う。そのことを私たちは、もう一度、肝に銘じておくべきだと思います。

 

もう一つ。リスクマネジメントを行い得るのは、「論理的思考」だけだと思います。原理を発見し、未来を予測し、予め対策を講じておく。それがリスクマネジメントです。これは、人間の感覚や、感情によってなし得ることではありません。あくまでもそこには、「論理的思考」が必要になって来る。そして、現在の安倍政権にそれを期待することはできないと思います。新型肺炎の問題だけではありません。福島第一原発事故だって、収束してはいない。放射能汚染物質を自然界に放出しようとしている。被災者に対する支援だって不十分です。更に、地球温暖化に伴い、昨今では自然災害が頻発し、かつその規模が拡大しつつある。その対策だって、できていない。道路や橋の老朽化も進んでいる。そのうち、大きな橋が崩落して大事故が起こるのではないか。リスクは多様化し、その規模を拡大している。このような現状に対処できるのは、宗教ではありません。独裁政権でもありません。独裁政権は多くの国民や被災者を切り捨てます。論理的に思考する、民主的で、強い国。早急にそのような国家を樹立しない限り、私たちはリスクに対処することができない。

 

さて、本題に入りましょう。今回の原稿では、文化との関係で、人間の自由について考えてみることにします。項目を箇条書きにしてみます。

 

1.(選択の自由)人間には、選択の自由がある。 文化>個人
2.(思考の自由)人間には、文化を疑い、思考する自由がある。 文化=個人
3.(超越的自由)人間には、文化を前進させる自由がある。 文化<個人

 

では、順に始めましょう。

 

1.(選択の自由)人間には、選択の自由がある。 文化>個人

 

いきなり卑近な例で恐縮ですが、今日の私の昼食は、味噌ラーメンでした。味噌ラーメンが590円で、トッピングにバターを選ぶと追加で100円掛かります。合計でも、690円。これはとても安いし、結構、おいしい。そもそもラーメンの麺は、中国に起源があるのではないか。原料は確か、カンスイというものだったように記憶していますが、その詳細を私は知りません。次に味噌ですが、これは日本の伝統に根ざしていている訳ですが、一体、どこのどなたが発明されたことやら。味噌と醤油は和食を支える重要な調味料ですが、それぞれにとても永い歴史があるに違いない。そして、ヨーロッパで生まれたバターにも、永い歴史がある。つまり、わずか690円の味噌バターラーメンにも、時間的、空間的な広がりがあって、私は、その文化の恩恵にあずかっている。私一人では、決して味噌バターラーメンを作り出すことができない。

 

更に、私はそのラーメン屋さんで、味噌バターラーメンではなく、塩ラーメンや広東麺を選ぶことだってできる。そもそも、別の日本蕎麦屋に行くことだって、焼肉店に行くことだってできる訳です。すなわち私たちには、まず、このような選択の自由というものが許されている。デパートへ行ったって、コンビニへ行ったって、私たちは商品を選ぶことができる。そして、その商品には文化的な蓄積があって、それが商品の価値を構成している。

 

商品を購入する場合だけではなく、選挙になれば、どこかの政党を選んで投票することだってできる。

 

この「選択の自由」は、経済的に困窮していない限り、万人に許された自由だと思います。しかし、この自由の特徴とは、既存の文化の範疇の中にあって、実は、とても限定的なものではないでしょうか。例えば、100年後の日本にも味噌ラーメンというものがあったとします。それはきっと、現在、私たちが食べているそれとは、相当に異なるものであるに違いない。味だって、各段においしくなっているでしょう。しかし私たちは、100年後の味噌ラーメンを食べることができない。

 

この「選択の自由」とは受動的なものだと思います。誰か他の人が作り上げた何かを選んでいるに過ぎない訳です。また、文化と個人の関係を考えますと、明らかに文化の力が個人に勝っている。(決して私個人は、味噌ラーメンを作り上げることができない。)この点を記号化してみると、文化>個人 ということになります。

 

2.(思考の自由)人間には、文化を疑い、思考する自由がある。 文化=個人

 

世の中を少し見渡してみますと、もう少し、文化に対し、能動的な姿勢を示している人もいます。例えば、銀座に高級寿司店の「久兵衛」というのがあります。(私は行ったことがありませんが)こちらのご主人は、伝統的な寿司にこだわらず、常によりおいしいネタはないか、より良い調理方法はないかと永年、研究を続けて来たそうです。すなわち、こちらのご主人は、寿司という日本の伝統文化が完全なものであることを疑っている。もっとおいしい寿司を作れる可能性があると信じている。

 

こういうことは、思想や芸術の世界にも言えることです。既存の考え方より、もっと良い考え方があるのではないか。いや、きっとあるに違いない。そう思った人々が、歴史を作ってきた。過去の思想や文化を疑い、果敢に挑戦を試みる。疑う、疑問に思う、そういう所から人間は思考を始めるのだと思います。この「思考の自由」において、文化と個人は対立し、対等の関係になる。記号化しますと、文化=個人 ということになります。ちなみに、このブログなどは、この段階にある訳です。

 

3.(超越的自由)人間には、文化を前進させる自由がある。 文化<個人

 

しかしながら、個人の力が文化を上回る場合も、極めて稀ではありますが、存在します。例えば、相対性理論を発明したアインシュタイン。こう言えば、誰もが納得するのではないでしょうか。ちなみに、ニュートンは物理学の世界に籠っていたそうですが、アインシュタインはカント哲学にも精通していたそうです。

 

そして、ピカソ。何年か前に箱根の彫刻の森にあるピカソ館を訪れた時のことです。作品解説のパネルに、次のようなことが書かれていました。

 

- ピカソも、他人の作品の模写をしていた。ピカソは、他人の作品は大いに真似るべきだ。しかし、決して自分の真似だけはしてはならない、と述べている。-

 

このパネルの解説文を読んだ時、私は、すぐにピンと来たのを思い出します。これ、ジャズのマイルス・デイビスと同じ発想なんです。マイルスは「過去に録音した自分の演奏を聴くことほど、退屈なことはない」と述べている。

 

まず、ピカソの例から行きましょう。他人の作品を模写する、真似るという行為は、自分が持っていない技術なり、発想を習得するという意味があると思います。他方、過去に描いた自分の絵と同じような絵を描いたとしても、自分が習得するものは何もない。それでは、自分の芸術を前に推し進めることができない。そういう意味だと思います。

 

マイルスも同じで、常に新しいアイディア、新しい試みに挑戦するべきであって、自分が過去に行った演奏をいくら聞いても、新しい何かを発見することはできない。それは、その演奏を行った過去の一瞬にやり尽くしている。そういうことをマイルスは言っているのです。

 

ピカソとマイルスの例から抽出される原理とは、前進し続けるためには、過去の自分を疑い、否定するということではないでしょうか。過去の自分を否定することができれば、他人が作り出した過去の文化を否定することは、難しいことではない。

 

現存する文化やその伝統さえも疑い、過去の自分を否定し、前進し続けること。そうやって初めて得られるのが、「超越的自由」だと思うのです。ピカソは誰も見たことがない絵を描いた。マイルスは、誰も聞いたことのない音楽を生み出した。彼らの作品は、その時点での文化を超越している。個人にとっての究極的な自由が、ここにある。 記号化してみましょう。 文化<個人

 

ピカソが描いた絵画も、マイルスの音楽も、やがて文化によって吸収される。そして、彼らの作品を吸収することによって、文化も前進するのです。